2018年皐月(6月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 我々は他者の死に接したとき、嘆き悲しみ、その事実を受け入れまいとして「死んだなんてありえない」「生き返ってほしい」と抵抗するかもしれません。あるいは、いまはできるだけそのことを考えないという態度をとることができるかもしれません。しかし、それは何の役にも立たないと釈尊(しゃくそん ※)は言います。人の死に接してわき起こる「嘆き」「願い」「憂い」を矢に喩えて、自分の内部に突き刺さっていて極めて抜きがたい三つの矢を抜き去るがよいと釈尊は語るのです。そのような矢を抜き去った者こそ、あらゆる悲しみを越えて心の平穏を得ることができると言うのです。
 死を前にしては、いかなる人間の抵抗も無益に終わるでしょう。だから、私は「嘆く」「願う」「憂う」という態度を最初からとらないのだと、釈尊は宣言しているように思われます。死は人間から一切を奪い去る。しかし、やがては死を迎えるという事実に直面してもなお奪い去られないものを釈尊は発見したのです。それは、いずれ死の力に屈しなければならなくとも、その事実に対して「いかなる態度をとるか」、言い換えれば、「いかに生きるか」を決定するという人間に許された最後の態度決定の自由です。そして、この「いかに生きるか」という態度決定は、死を迎えるまで問われ続ける課題だと言えるでしょう。

釈尊
お釈迦さま

『スッタニパータ』(原始仏典)

大谷大学HP「きょうのことば」(2013年9月)より
教え 2018 06

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 「世界」という言葉は、「ワールド」の翻訳語として受け取られている場合が多いようです。一般用語として使われていますから、これが仏教語だったとは気づきませんね。古代インドでは、想像上の須弥山(しゅみせん)という巨大な山を中心とした宇宙観で全世界を考えていたようです。
 しかし仏教では、「ひとりの人間には、ひとつの世界がある」と教えます。ひとつの大きな入れ物のなかに、地球や世界があるという考え方は世間的です。宗教的には、ひとりにひとつの世界があるというのです。つまり、自我というものを国王として、見渡す限りを自分の領土(世界)として固執しようとするのです。自分に関係の深いものを近くに置き、関係の浅いものを遠くに置くという「自我の遠近法」をもって暮らしています。ひとりの人がここにいれば、そこにはひとつの固有の世界があり、別の人がいれば、また別の世界を持って生きているのです。百人いれば、百の世界が存在しているわけです。
 ですから、ひとりの人間の死は、ひとつの世界の消滅でもあるのです。私たちはたったひとつの世界に住んでいるのだと思い込んでいるだけです。実存的に見れば世界は重層的に重なっているのです。その固有の世界をどのように創造してゆくのかということが、大切な課題となってきます。法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ ※)がさまざまな世界をご覧になって、独自の本願(ほんがん ※)の世界を創造されたように、私たちひとりひとりも永遠固有の世界を創りあげてゆかなければなりません。創造とは大それたことではありません。この一回限りの<私>の生を「生きる」ということなのです。

法蔵菩薩
『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)』というお経に説かれる物語に描かれる菩薩。仏の教えに出遇ったことに喜び、自らも仏となって生きとし生けるものを救いたいと国王の地位を捨てて仏道を歩み、後に阿弥陀仏(あみだぶつ)となった修行者。
本願
全ての生きとし生けるものを救いたいと発された阿弥陀仏の願い

武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)

月刊『同朋』2003年5月号より
仏教語 2018 06

僧侶の法話

言の葉カード

 親鸞聖人がよく仰った言葉に「弥陀(みだ)の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業(ごう)をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願(ほんがん)のかたじけなさよ」(※)という言葉があります。弥陀(阿弥陀如来 あみだにょらい)の「皆さん」という呼びかけに対し「私自身が呼ばれている」と受け取った方が親鸞聖人です。凡夫(ぼんぶ)の自覚があればこその当事者感覚だと思います。弥陀の本願(ほんがん ※)は正しく自分にかけられているという当事者の感覚が「一人」の自覚です。
 「成就」という言葉は、成就し続けるという現在進行形の意味で捉えなくてはなりません。ですから、「すでに成就してしまった」「成し遂げてしまった」ということではない。「学業成就」となれば、勉強し学校に入り、その学びの本質を体得し、その学びを基礎として社会に出て生きて行かなくてはなりません。
 ですから「一人(いちにん)の成就」ということは、聞法(もんぽう ※)の生活でいえば、弥陀の本願の当事者であることをうなづいていく凡夫の歩みということです。弥陀の本願の話を聞き続ける歩みをしていくということ。それがお念仏(ねんぶつ)の人生を歩んでいくということなのです。

※『歎異抄(たんにしょう)』という書物の言葉

弥陀の本願
全ての生きとし生けるものを救いたいと発された阿弥陀仏の願い
聞法
仏の教えを聴聞すること

齊藤 研氏
真宗大谷派 正楽寺副住職(新潟県)

真宗会館「日曜礼拝」より
法話 2018 06

著名人の言葉

言の葉カード

 生命というのは変わらないでいるために変わり続けているということなんです。一瞬たりとも同じ状態はないんです。常に変化して新しい平衡(へいこう)を求めていく。鴨長明(かものちょうめい ※)は水の流れに譬(たと)えましたが、その流れのところに生命の価値がある。そういうふうに生命を考えると、生命についての自由さとか希望が見えてくるんじゃないかと思います。

鴨長明
鎌倉前期の歌人

福岡 伸一(生物学者)

「サンガ」No.113より
著名人 2018 06