僧侶の法話

言の葉カード

 「私」というところに立ちますと、この人生はどう考えても理不尽なものですね。思い通りになれば理不尽とは言いません。しかし、誰もかれもこの人生については理不尽なものを感じています。「なぜ?」「どうして?」という疑問を胸の奥深くに持ちながら、我々は生きています。だから、どう考えても納得できないのです。
 自分の人生にどうしても納得がいかない。特に戦前、戦中、戦後と生きられた方にとっては、いかに娑婆(しゃば)とはいえ納得しきれないものがいっぱい胸に残っていると思うのです。「これが娑婆だ」、「これが人生だ」と言ってみましても、この私というものを納得させるわけにはいかないのですね。そういうものが、私どもの中にあります。
 そうしますと、この「私」というのは、正体がはっきりしないものなのです。「私、私」と言い続けておりながら、そして他でもないこの「私」が生きてきたにもかかわらず、この「私」に納得できないということは、「私」という存在がわからないからです。
 我々は「私」を依りどころにし、「私」を中心として生きているけれども、その私は実は正体不明なのでしょう。ということは、最期には「わからん」と言って死なねばならないのです。「こんなはずではなかった」というのは、私がわからんということですね。
 この、わからんままに人生を終わっていくことを「流転(るてん)」というわけです。本当に、人生にきりがついたというわけにはいかないのです。きりがないのです。これで完了した、これできりがついた、ということがないのですね。

平野 修氏
九州大谷短期大学元教授

『本尊の意義をたずねて』
(東本願寺出版)より
仏教語 2025 04