暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 運動会というと思い出すことがあります。お寺の子ども会に通って来てくれていた年長さんのTくん。「運動会は終わったの?」と尋ねると、元気よく「うん! 昨日で終わった」と答えました。その答えに思わず笑ってしまいました。
 「昨日だった」と言わずに「昨日で終わった」と言ったところにTくんの思いが込められています。秋の運動会でしたから、夏休み明けから始まって、毎日毎日運動会の練習があったのです。体操、リレー、ダンスなどなど。
 Tくんにとっては、毎日が真剣勝負の運動会です。その長い長い運動会が「昨日で終わった」のです。今日はまだ本番ではない、これは稽古、練習だからと手を抜いたり本気でなかったり、おとなの私たちは案配(あんばい)しますが、Tくんはいつも本気で本番の運動会です。
 よく考えてみると、一日一日が本番の一日なのです。あれは練習だったのでもう一回やり直しますということができないのが毎日です。それなのに、今日は来週のための稽古の日、来年のための準備と、自分の思いで手を抜き本気にならなくてよいと案配します。
 その案配を、仏教は「分別(ふんべつ)」と言います。自分の都合や予想の思いで、今日は五分でとか、八分でと考えたり、今日こそ十二分に力を出そうと分別するのです。それができるのが世の中や生き方をわきまえたおとなの分別とされます。
 しかし、もう二度とない一日をそのままを受け取ることが、仏様の智慧(ちえ ※)無分別なのでしょう。その智慧から、私たちの計算や案配といった分別の心が、それでよいのかと問われています。

智慧
知識や教養を表す知恵とは異なり、自分では気づくことも、見ることもできない自らの姿を知らしめる仏のはたらきを表す。

四衢 亮(よつつじ あきら)氏
真宗大谷派 不遠寺住職(岐阜県)

仏教語 2024 10