僧侶の法話

言の葉カード

 「無明(むみょう)とは何も分からないことではない
  すべて分かったつもりになっている心のことです」(宮城 顗)

 人は、子どもから大人になるその過程で、多くの経験を積み、また知識を身につけることで、より豊かで広々とした世界を生きられるようになるはずである。こうした考え方が、かつて若かりし頃の私自身には、ひとつの疑いようのない常識として映っていました。
 しかし、経験や知識の多寡と人生の厚みや深さが、比例の関係にあると見るのは、いささか短絡的かもしれません。むしろ経験や知識に縛られ、いよいよ世界を狭くしていくというのが、私たちの事実です。上の「無明」というのは、そうした人間の昏(くら)さを指す言葉ですが、経験や知識が乏しいからではなく、却って身に付ければこそ昏いのです。
 無明を知る手がかりとして、柳田邦男氏の『人の痛みを感じる国家』という本の中で取り上げられていた、ある母親の書いたエッセーの内容を少し紹介させていただきます。
 それは軽度の知的障害を抱える子の母親から寄せられたものですが、その母子がある病院の診察室で医師と向き合ってやりとりをする場面が描写されています。その子は小学校への進学を控える年齢ですが、進学に先立って知能テストを受けるよう公的機関から言われ、母親に付き添われて病院へ赴きます。診察室では医師から子へ質問が向けられますが、その中のひとつに次のようなものがあったそうです。

 「おとうさんは、おとこです。それでは、おかあさんは」

 私たちの常識、すなわち知識の世界では、その答えは「おんな」となります。もしそれ以外の答えを言えば、この子はどこか普通ではないと烙印(らくいん)を押されることになりますが、もうお分かりのように、その子は「おんな」とは答えなかったそうです。その代わりに、「おかあさんは、だいすきです」と、答えたのです。もちろん医師の質問の文脈からは逸脱していますが、母親を「だいすき」と表現したことを、一体誰が誤りだと言えるでしょうか。
 その子にとっては、母が女性か男性かという知識の面は、もはや問題ですらなく、母の存在の大きさ、広さ、あるいは深さは、「だいすき」の一言で十分に言い尽くされているのでしょう。自らにとって寄る辺となる母の温もりは、器用に言葉を並べて説明したところで遠く及ばないことです。
 私たちは知識や説明で物事の本質を捉えられると自明のごとく考えますが、そう信じて疑わない私たちの相こそ、無明という言葉で古くから言われてきたのでしょう。今日のことを思えば、スマートフォンで即座に多くのことを知ることができる時代になりました。しかし、私たちが生きる上で本当に大切なことは、調べて分かるようなことよりも、調べても分からないことの中にあるのかもしれません。

大中臣 冬樹氏
真宗大谷派 勝福寺住職(富山県)

真宗会館広報誌『サンガ』182号より
法話 2024 07