暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 かつて「中流意識」という言葉がはやったことがありました。経済が高度成長を果たし、かつてあこがれだった家や車や電化製品もだいたい揃えることができた、もう下流ではない、と言っても上流というのはおこがましいという意識が、この言い方を生んだような気がします。
 この上中下というランク付けの言い方には、上品・下品という言葉がありますが、これは浄土に往生する人を分類する表現としてお経に出てきます。上品(じょうひん)・下品(げひん)と発音せず、上品(じょうぼん)・下品(げぼん)と言います。そしてさらに詳しく、上の上、上の中、上の下、中の上、中の中、中の下、下の上、下の中、下の下と九通りに分けてあります。
 上上品の人には、仏様や菩薩(ぼさつ)や天人が往生する人を褒めたたえながらにぎにぎしく迎えにきて、あっという間に浄土に往生すると説かれます。下下品の人には金色の蓮の華が一輪現れ、長い長い時間を経て浄土が開かれると説かれます。
 その違いは、往生を願う心の清らかさや日頃の行いや努力によって差が出てくるのです。
 先に出しました「中流意識」というのは、九通りの分類からいうと「中の中」というより「中の上」あたりの意識のようでした。ただ、上とか中とか下とか、ランク付けし認定されるわけではありません。他の人やまわりと見比べながら、自分で判断するのです。
 往生の九種類のランク付けも、仏様が認定されるのではないので自分で判断することになりそうです。そうするとやはり他人と比べることになります。「あの人よりは、私の方ががんばった」「あんな下品とは違う、私は中品のはずだ」とか。しかしこれには問題があるのです。往生する浄土は人と比べて威張ったり、ひがんだりする心を超えた仏様の世界です。比べながら、比較する心を超えることはできないでしょう。
 実は、上品・下品という教えは、そうやって人と比べて格差を喜ぶ私たち人間の問題に気づかせる、仏様の教えなのです。

四衢 亮(よつつじ あきら)氏
真宗大谷派 不遠寺住職(岐阜県)

仏教語 2024 02