「凡夫(ぼんぶ)」とは「仏教の教えを理解していない人」という意味で、自己中心的に生きて苦悩する私たちのことを指しています。また「無明(むみょう)」とは、人の心を惑わす多種多様な煩悩(ぼんのう)の根本のことで、物事の道理に暗い状態といってよいでしょう。私たちにはそんな無明煩悩が充満しているのです。
ですから、自分の思いどおりにいかなかったり自分より優れた人を見ると、無明煩悩がすぐさま芽を出し、怒りや腹立ち、うらみやねたみが生まれ、そこから逃れることができずに苦悩するのです。このように仏教は、苦悩の原因を他人や環境といった外側に見るのではなく、自身の心の内に見ます。これを「内観道」といいます。
怒りや腹立ちの気持ちがでてきた時はどうすればよいのでしょうか。ある先生は次のようなことを言っています。「怒りやねたむ気持ちがでてきたら、止めようとするのではなく、あっ、私のなかから人間(の本性)がでてきた、でてきたと思いなさい」と。ちょっと肩の荷がおりるのではないでしょうか。
『一念多念文意』(親鸞)
『人生を照らす 親鸞の言葉』(リベラル社)より
教え 2024 02
かつて「中流意識」という言葉がはやったことがありました。経済が高度成長を果たし、かつてあこがれだった家や車や電化製品もだいたい揃えることができた、もう下流ではない、と言っても上流というのはおこがましいという意識が、この言い方を生んだような気がします。
この上中下というランク付けの言い方には、上品・下品という言葉がありますが、これは浄土に往生する人を分類する表現としてお経に出てきます。上品(じょうひん)・下品(げひん)と発音せず、上品(じょうぼん)・下品(げぼん)と言います。そしてさらに詳しく、上の上、上の中、上の下、中の上、中の中、中の下、下の上、下の中、下の下と九通りに分けてあります。
上上品の人には、仏様や菩薩(ぼさつ)や天人が往生する人を褒めたたえながらにぎにぎしく迎えにきて、あっという間に浄土に往生すると説かれます。下下品の人には金色の蓮の華が一輪現れ、長い長い時間を経て浄土が開かれると説かれます。
その違いは、往生を願う心の清らかさや日頃の行いや努力によって差が出てくるのです。
先に出しました「中流意識」というのは、九通りの分類からいうと「中の中」というより「中の上」あたりの意識のようでした。ただ、上とか中とか下とか、ランク付けし認定されるわけではありません。他の人やまわりと見比べながら、自分で判断するのです。
往生の九種類のランク付けも、仏様が認定されるのではないので自分で判断することになりそうです。そうするとやはり他人と比べることになります。「あの人よりは、私の方ががんばった」「あんな下品とは違う、私は中品のはずだ」とか。しかしこれには問題があるのです。往生する浄土は人と比べて威張ったり、ひがんだりする心を超えた仏様の世界です。比べながら、比較する心を超えることはできないでしょう。
実は、上品・下品という教えは、そうやって人と比べて格差を喜ぶ私たち人間の問題に気づかせる、仏様の教えなのです。
四衢 亮(よつつじ あきら)氏
真宗大谷派 不遠寺住職(岐阜県)
仏教語 2024 02
私の好きな言葉に「失ったものの大きさは、与えられていたものの大きさだった」というのがあるんですね。私たちは失った悲しみというところばかりに目が行きがちなんですけど、それは同時に与えられていたということでもあったんだと。そこをもっと、しっかり見ていかなければいけないと思うんです。大切な人を失って、心にぽっかりと穴が空いてしまって、ご飯も喉を通らない。その空いてしまった穴を無理やり埋めようと、何か気ばらしをして過ごすこともあると思います。でも、本当は忘れなくてもいいんですよね。今の時代は、悲しいこと、辛いことはどんどん排除して、見えないようにしていく傾向が強いですが、でもそういうことが、実は人間を本当に人間らしくしてきたのではないかと思うんですね。
だから、悲しみという心を育ててあげるということが大事ではないでしょうか。
批評家の若松英輔さんが「かなしみ」という言葉には、古来、五つの漢字があったということを言われているんですね。
まず一つが「悲」です。これは心が左右に張り裂けている様子を表している。
さらには「美」という字で、「かなしみ」と読まれた。かなしみの底には美が潜んでいるのだと。例えば桜の花が散っていくことに対して、私たちは寂しさを覚えると同時に、それを美しいと感じる心を持っていますよね。それはある意味、かなしみの底に美ということがあるからなんだと。そして、最後に「愛」という字を使って「かなしみ」とも昔の人は読んだんですね。かなしみの底には愛があるんだと。誰かを愛していたということが、私たちをかなしませているわけです。
現代の私たちは、最初の痛みとしての悲しみだけを取って、それを何とか見ないようにしている。でも、そのもっと深いところには、美しさであったり、愛であったり、そういうものがあるということで、そちらに目を向けることが、とても大事ではないかなと思います。
花園 一実氏
真宗大谷派 圓照寺住職(東京都)
親鸞フォーラム抄録『Sein(ザイン)』Vol.10より
法話 2024 02
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目の前にあるのは、ひとつのお茶碗。茶道で抹茶を飲むためのティー・ボウル、小さなどんぶり。このお茶碗が今、私を別次元へとゆっくり引っ張ってくれています。
テンション高めで英語交じりのトークを繰り広げてきた私、ルー大柴がジャパニーズの極みであるティー道、つまり茶道に挑戦してから早10年以上が経ちました。そうして、ここ数年、「歳とったんじゃない?
ルーさん、丸くなったね」と言われます。
とっても心外です。
「まだまだ若いもんには負けーん!」と意地を張る程度のオッサンには、確かになってますけれども。ただ、昔の自分との違いは自分自身で実感しています。ムダに肩肘をはらない、ラクな姿勢で生きる人間に変わりました。それは加齢のせいでなく、あくまでティー道のおかげです。目の前のお茶碗を眺めて、「どんな産地で作られ、どんな想いが込められているんだろう」と心を馳せることができるようになったから。
ティー道を知る前、お茶碗はただのお茶碗でしかありませんでした。今は、お茶碗の背景を知りたくなって、知っている人がいれば尋ね、自分でストーリーを膨らませます。途端、お茶碗が愛しい存在になるんです。
ものだけでなく、人も同じ。こんにちは、さようなら、と挨拶して終わるのでなく「この人の目に、世界はどう映っているのだろう」と、ときおりイメージしてみます。
同じ空間にいても、相手の立場に立ったつもりで周囲を見直すと、急に新鮮味が増して楽しい気分に。それらはどれも、自己主張の強い欧米かぶれのキャラクターで芸能界を渡り歩いてきたルー大柴が、一念発起してティー道の教室に通い、おもてなしの極意を少しずつ学んできた成果です。
ティー道のおもてなしは、人と人の間に生まれる優しい気持ち。相手を喜ばせようとする、思いやりなのです。
目に見えるものではないから、英語の勉強のように「今日は30単語覚えた!」なんて分かりやすい達成感は得られません。学んだ端からダイレクトに結果が出るなんてことは、けっしてありません。でも、ティー道だからこそ会得できる物事は、確実に存在します。もちろん、何も知らない最初はカタチから入るでしょう。何度も繰り返すうち、あとから心が付いてきますので、ご安心を。ハラハラ、クヨクヨ、イライラ、オドオドしていた日常の自分が、すーっと穏やかになっていく。今ではお茶碗を前にすると、心を整えるスイッチが自動的に入るようになりました。
師範の許状(きょじょう)をいただくまで続けてみて、ティー道は生きるヒントの宝庫であることがようやく分かったのです。
大柴 宗徹(ルー大柴)氏
茶道師範
『心を整えルー』(自由国民社)より
著名人 2024 02