最近、家庭も個人も孤立化し、社会そのものが分断された時代になってきました。だからでしょうか、家族葬という葬儀の形態が多くなっています。故人の高齢化やお家の事情等はありながらも、葬儀の簡略化が進み、更に新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、仏事全体の縮小傾向に、いっそう拍車がかかっています。
また、葬儀の簡略化は、「終活」ということの中で、「子どもに迷惑をかけたくない」とよく言われます。遺された家族や近親者が、いざという時に困らないようにしておくのは大切なことです。しかし、それは迷惑をかけることではありません。「誕生」も「死」も、お互い支え合って、はじめて成り立つのですから。
「弔(とむら)う」という言葉の成り立ちを遡れば、元は「とぶらう」だったそうです。現代では「とぶらう」とは「訪う」と書きます。つまり、「弔う」のもとは「尋ねる」ということになるのです。
ですから、「弔う」という死者を尋ね、訪う機縁を逸してしまえば、養われ、育てられるという人間としての感覚そのものが失われてしまいます。
そして、一人ひとりの「いのち」や「死」までも見えにくくなってしまうのです。だからこそ、その課題に応えていく世界として、尋ねていく世界として、「葬儀」という儀式があるのです。
つまり「誰のために葬儀を勤めるのか」。 それは死者のために、生者のために、私のために、人間が人間であるために、「葬儀を勤める」のです。人間存在の根源に関わる儀式です。
海 法龍氏
真宗大谷派 長願寺住職(神奈川県)
『誰のために葬儀を勤めるのか』
(東本願寺真宗会館)より
法話 2024 08