2023年睦月(1月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 教えの聞き方について、懇切丁寧に教えて下さったのは本願寺第八代住職蓮如上人(※)ですが、「聴聞を申すも、大略、我がためとおもわず、ややもすれば、法文の一つをもききおぼえて、人にうりごころある」と、聴聞の誤りについて誡(いまし)められた言葉があります。多くの人は仏法(ぶっぽう)を聞いていても、それが自分の人生における根本の問題を解決するためとも思わず、ややもすれば、教えの言葉の一つも聞き覚えて、これを他人に聞かせることで、自分の名誉を高めて利益を得ようという心、即ち名利の心があるとのご注意です。

 ある高名な僧侶がお話に行った先で、法話が済んで座敷で休んでいたら、その家の姑がおしぼりを持って入って来て、「本日は本当に結構なお話をありがとうございました。今日のお話は、さぞかし嫁にはこたえたと思います」と挨拶して部屋を出て行くのと入れ違いに、お茶を持って入ってきた嫁が、「ありがとうございました。今日のお話、さぞかしお義母さんの耳には痛かったことと思います」と言ったという笑い話のような話がありますが、あながち作り話とは言えないのではないでしょうか。私たちの聞き方も、いつのまにか我がためにではなく、他人事(ひとごと)になっているのではないでしょうか。
 しかも、他人事に聞いている心は、「うりごころ」と蓮如上人がおっしゃったように、物を売って得しようという、功利、即ち自分に利益になることを求める心に他なりません。それはまた、自分にとって都合のいいこと、役に立つことは認め受け入れるけど、都合の悪いこと、役に立たないことは認められない、受け入れられない、否、排除さえしようという心でありましょう。その心で聞く限り、教えは聞こえてきません。
 人間の常識から言えば、功利を求める心は、むしろ当然だと思われている心でしょうが、しかし人間は、その心で苦悩しているのではありませんか。

蓮如(1415~1499)
室町時代の浄土真宗の僧侶

『蓮如上人御一代記聞書』(蓮如)

五辻 文昭氏
真宗大谷派 本浄寺前住職(岐阜県)
ラジオ放送「東本願寺の時間」より
教え 2023 01

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 現代語の「発起」は「思い立って何かを新しく始めること」ですが、もともとは仏教語で「菩提心(ぼだいしん)を起こすこと」を意味します。「菩提心」とは「覚(さと)りを求める心」のことで、仏道に入る第一歩と言われます。ところが親鸞聖人は、自分からは、そのような尊いこころは一つも「発起」できないと見抜かれました。そして、いままで自分から「発起」することができるという考えを「自力の菩提心」と批判しました。いままで自分から覚りを求められると思っていた仏道が解体され、阿弥陀(あみだ)さまが人間に求める仏道が開かれたのです。

 しかし、仏道を求めるのであれば、さぁこれから道を求めるぞと「発起」しなければなりませんね。なぜ親鸞聖人は、それを「自力」であり、決して人間には成り立たない心だとおっしゃったのでしょうか。それは自分から覚りを求める心は尊い心であっても、求めている限り、目的には到達できないという矛盾を孕(はら)んでいるからです。求めるのは、未だに手に入れていないからであって、手に入れたら求めることが止まります。それが仏道を求めて「修行」をすることのジレンマです。覚りを求めよう、しかし、求めている限り手に入らない。
 さらに、覚りを求める心は、〈いま〉ある自分を超えたものを求めるわけですから、〈いま〉の否定が前提になっています。〈いま〉を殺すような仏道は「自力」なのだと、阿弥陀さんからの批判を受けたのです。そして、いままで、自分から「発起」したと思っていた「思い」は傲慢(ごうまん)だと、阿弥陀さんに揺さぶられて目覚めたのです。阿弥陀さんの揺さぶりとは、阿弥陀さんの「教育」であります。

 思えば、人生は「私」から始まるものではなく、阿弥陀さんの「教育」から始まっていたのです。それこそ、「十劫(じゅっこう)」という、遙か昔から「教育」され続けてきたのです。この世に私を生み出されたのも阿弥陀さんですから、阿弥陀さんの「教育」から逃れることができません。この「教育」を親鸞聖人は、「浄土の大菩提心」(正像末和讃 ※)とおっしゃいます。これは人間が「発起」する心ではなく、阿弥陀さんの起こされる「誓願」のことです。あらゆる苦悩する者を救えなければ、私は仏には成りませんと誓っておられます。この誓いを、私は「阿弥陀さんの教育」と受け止めています。この世で起こる様々な問題は、すべて、〈私一人〉を「教育」するための阿弥陀さんの教材でありました。

和讃
親鸞が人々に親しみやすくつくった詩

武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)

仏教語 2023 01

僧侶の法話

言の葉カード

 考えの異なる人と人とが歩み寄るためには、立場を超えて語り合わなければなりません。それは妥協して表面的に仲良くすることでも、互いに依存し合うことでもありません。立場を超える道は、実は何らかの立場をもってしかものが語れないという、私自身の愚かな身の事実に気が付くことにおいて他はないと思います。人間は自分の愚かさに気付いた時に初めて、立場を超えて人と同じ地平に立つことができるのでしょう。

 結局私を苦しめて来たのは、自分自身への執着だったのではないでしょうか。それは自分をどこまでも正しいとする闇です。しかも闇にありながら、それを闇として意識できていないことに、私たちの問題があるのでしょう。確かに平穏な時を送っている限り、傲慢(ごうまん)な人間の本性が真実を見る目を覆ってしまいます。むしろ苦悩を伴ってこそ、自分の心が闇であったことに気付かされます。人間が生きる意義を見失って困惑しているのが現代です。そして震災やコロナ禍が、いのちの意味を根底から問い質しました。この厳しい今の社会においてこそ、私たちは悲しむべき自分の相(すがた)に心から向き合うことができるのではないでしょうか。

 真っ昼間によく見えない灯火は、闇においてこそまばゆい光を放ちます。闇を闇として捉えて初めて、光に出遇(あ)うことができるのです。ですから闇は決して絶望ではありません。むしろ苦悩するところにこそ、決して見捨てないという仏の願いが息づいているのです。闇の中でいのちを輝かせる光となってはたらくのです。
 自分のことしか顧みることのできない愚かな身であることに気付かせ、この悲しむべき存在として生きるしかない者を救わずにはおかないのが、阿弥陀如来(あみだにょらい)という仏様なのだと思います。そして人が自分と同じように、悲しい存在を生きる身であることに思い至れば、人に心を開き、すべての人々と共に歩む道が開かれるのでしょう。この苦悩に満ちた世の中を生きる人間の一人として、仏の呼びかけを聞いていくことに、現代を生きる私たちの依り処があるのではないでしょうか。

茨田 通俊氏
真宗大谷派 願光寺住職(大阪府)

ラジオ放送「東本願寺の時間」より
(一部加筆修正)
法話 2023 01

著名人の言葉

言の葉カード

 私が言っている「脱成長」というのは、仏教的な考えで言えば「足るを知る」という、非常に単純な話なんです。資本主義のもと、人間の欲はいつまでたっても満たされません。何かモノを買っても、また新しいモノが出るし、SNSを開けば、もっといいモノを持っている人がいる。そういう競争を続けていても、結局幸せになれないし、自然環境もぼろぼろになってしまう。であるならば、私たちの社会はすでに十分豊かなんじゃないか、ということに発想を転換して、足るを知るような社会に変えていくこと。それが、持続可能な社会をつくる道となり、同時に人間にとっても幸せな社会をつくることに繋がるのではないでしょうか。

 Z世代と言われる若い世代に、気候危機に警鐘を鳴らすため、国会議事堂に一人で座り込んだスウェーデンのグレタ・トゥーンベリのような人が出てきました。なぜ彼女の主張に多くの若者たちが同意するかというと、今の状況に対する不安とか怒りがあるわけです。私たち大人が何もしなかったことのツケを押し付けられることへの不安や絶望や怒りがある。私たち大人は、彼らの怒りにきちんと向き合って、未来を選択しなければなりません。

斎藤 幸平氏
経済学者

真宗会館広報誌『サンガ』180号より
著名人 2023 01