2022年水無月(6月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 「天命」とは、儒教の言葉で、超越的な天の命令を表します。一方の「人事」は、人間のなしうる仕事を表します。一般的に諺(ことわざ)として広まっているのは、「人事を尽くして天命を待つ」です。これは、なすべきことをし尽くしたら、最後は天の命を待つ、大いなるものにお任せするしかないといった意味になるでしょう。
 ところが、明治期に活躍した真宗僧侶の清沢満之(きよざわまんし ※)は、若者に向かって話した「他力回向(たりきえこう)」に関する講話のなかで、それをひっくり返して「天命に安(やす)んじて人事を尽くす」と言いました。まずは大いなるものに身を任せ、その上で人事を尽くしていく。つまり、順番が逆だというのです。
 清沢は、私たちにこの世を生きていく道、世を処する道が開かれるには、第一に私たちの存在を支えてくださっている「完全なる立脚地(りっきゃくち)」を見いださなければならないとも言います。ここで言うところの「立脚地」とは、転ばないための根拠といったものではなく、むしろ安心して転ぶことのできる大地を表します。倒れそうになれば安心して倒れればいい。また一歩踏み出すことのできる力が湧(わ)いてきたなら、その時にゆっくりと立ち上がればいいのだ。清沢が大切にしていた人間観は「人間はみな弱いんだ」でした。
 この立脚地を見いださないままに処世術(世を処するためのすべ)ということに走ってしまえば、それはただ闇雲に迷うことになってしまいます。ですので、まずは私たちの存在をそのまま支えてくれる大地を見いださなければならない。そして、その大地の上で、もしも転んでしまっても大丈夫だと安心して、それぞれの自分でなければならない仕事に力を尽くしていく。それこそが他力の教えに根ざした「天命に安んじて人事を尽くす」という生き方であるということでしょう。

清沢満之(1863~1903)
明治期に活躍した仏教者、哲学者、教育者。真宗大谷派僧侶。

清沢 満之

名和 達宣氏
真宗大谷派 教学研究所所員
寺子屋ウェビナー「コロナ時代に不安と弱さを見つめる」より
教え 2022 06

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 現代語の「執着(しゅうちゃく)」は「強くこころをひかれ、それにとらわれること。深く思い込んで忘れられないこと」で、仏教語の「執着(しゅうじゃく)」は、「事物に固執し、とらわれること」です。どちらも似ていますが、特に〈真宗〉で否定的に語られる「執着」は、「自力の執着」です。自分のこころに執われて〈真実〉が見えないこころです。なぜ見えないかと言えば、それは自分の「発想」を固く信じ、その「発想」そのものが問われないからです。それを親鸞は「罪福信(ざいふくしん)」と呼んでいます。

 親鸞は「正像末和讃(しょうぞうまつわさん)」で、次のように詠っています。「不了仏智(ふりょうぶっち)のしるしには 如来の諸智(しょち)を疑惑して 罪福信じ善本(ぜんぼん)を たのめば辺地(へんじ)にとまるなり」と。解説すればこういうことでしょう。仏さんの智慧(ちえ ※)を知らないのには理由がある。それは如来を疑惑しているからだ。つまり自分のこころで、「こういうことをすれば罪となり、こういうことをすれば福となる」と判断して念仏を利用しているからであり、そういう理由で、〈真実〉の浄土には生まれられないのだと。
 如来の智慧を疑うには、疑うだけの理由があるのです。それは「自分の功利心」、つまり「罪福」を信じているからです。もっと言えば「自分のこころ」を信じているので、如来を信ずる余地はありません。親鸞は、いままで如来を信じていたつもりでいたけれども、それは如来を信じているのではなく、実は「自分のこころ」を信じていただけだったと知らされたのです。

智慧
知識や教養を表す知恵とは異なり、自分では気づくことも、見ることもできない自らの姿を知らしめる仏のはたらきを表す。

武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)

仏教語 2022 06

僧侶の法話

言の葉カード

 自分の思い通りになる人は一人もいませんし、自分の意にかなう人もいません。その意味で、たとえ極楽にいても満たされず文句を言うのが人間存在だと仏教は指摘します。どんなに恵まれた場所や人がいても愚痴(ぐち)が出てくるのです。それは私たち人間がどこまでも思い通りにしたいという執着をもっているからなのですが、問題はこの私を問わずに理想の場所を求めても、いつか必ず不足不満を口にしてしまうということなのです。この私を問うことを通して初めてそれぞれの置かれた場所から一歩踏み出せるのです。

 私も以前うまくいかないこと、思い通りにならないことをすべて周りや状況のせいにしていました。不満も多く愚痴も多く沢山の方にご迷惑をおかけしていました。しかしご本山やお寺での聴聞の場を通して、先生や先輩友人に遇(あ)い、場合によっては夜通し語り合って、ようやく視線が私に向くようになったのです。清沢満之先生(きよざわまんし ※)は「自己とは何ぞや。是れ人生の根本的問題なり」と述べられていますが、「場」を通して自分を問うことが根本的だと教えられたのです。

清沢満之(1863~1903)
明治期に活躍した仏教者、哲学者、教育者。真宗大谷派僧侶。

能邨 勇樹氏
真宗大谷派 勝光寺住職(石川県)

月刊『同朋』2017年9月号(東本願寺出版)より
法話 2022 06

著名人の言葉

言の葉カード

 「人に迷惑をかけてはいけない」ということをよく言いますが、私たちは、人に迷惑をかけながら生きているのであって、迷惑をかけずに生きている人なんていませんよね。迷惑と言うよりは、お世話をされていると言った方がいいかもしれません。人間は、生まれた時からいろいろなお世話をされながら生きていくのですから。そのようなことから言えば、私は「人に迷惑をかけてはいけない」という言葉の意味は、「人の嫌がることをしてはいけない」ということなのであって、「人のお世話になることがいけない」ということではないと思うのです。
 ですから、私はいつも「お世話はされなさい」「お世話はいろいろな人にされた方がいいんだよ」、そしてお世話になっている方々に「ありがとう」と言葉をかけようと言っているのです。そこにこそ、「自分らしく生きる」ということがあるのではないかと思うのです。

内田 美智子氏
助産師

「同朋新聞」2020年1月号(東本願寺出版)より
著名人 2022 06