2021年如月(2月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 「和顔愛語」というと、額や色紙でよく見かける言葉です。「和顔」とは、なごやかな顔、「愛語」とは、やさしい言葉です。善意に満ちたなごやかな笑顔で、愛情のこもったやさしい言葉で相手に接するということです。
 日本人には「仏頂面(ぶっちょうづら)」が多いと言われます。「仏頂面」とは、無愛想な、不機嫌にふくれた顔つきのことです。仏頂面をしている者は、他人のことを考えないエゴイストとして、欧米では嫌われると言います。ほほえみがエチケットなのです。
 私たちは、にこにこと笑っている赤ん坊の笑顔を見ると、本当に心があたたまります。赤ん坊の笑顔は、仏さまからの授(さず)かりものです。
 この「和顔愛語」は、『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう ※)』の中に出て来る言葉ですが、この言葉の後に、「先意承問(せんいじょうもん)」(意〈こころ〉を先にして承問〈じょうもん〉す)という言葉が出て来ることは、案外知られていません。  向こうから言われない先に、相手の気持ちを察して、その望みを満たしてあげるというのです。相手の立場に立って力を借すということでしょう。
 人間のあたたかさ、やさしさ、いたわりが、人を動かしていきます。

『大無量寿経/仏説無量寿経』
浄土真宗で大切にされる経典(お経)の一つ。

『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)』

『銀杏通信』(真宗大谷派大阪教区HP)より
教え 2021 02

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 普段の会話で、「ここが正念場だ」などと使います。辞書には「歌舞伎等で、主人公がその役の性根(しょうこん)を発揮させる最も重要な場面」、また「ここぞという大事な場面・局面」などとあります。仏教語としての「正念」には、「信心の正しくさだまること」などの意味があります。さて自分にとって、人生の「正念場」はどこにあるのでしょうか。そう問われると、この人生こそが、この世に生まれたことの意味を問う、一回限りの「正念場」だと教えられます。

 「正念場」と言うと、人生のどこかに大事な決断の場面があるように思われがちですが、そうではないようです。奇跡的に、この世に生まれた「人生全体」の意味を問うことこそが、仏法における「正念場」です。
 人類は、人生の終点を知ってしまいました。それは「死」です。「死」をもって終わる人生に意味があるのでしょうか。そこに仏法(ぶっぽう)は楔(くさび)を打ちます。「あなたの知っている『死』は本当の『死』なのか」と。確かに私たちが知っている「死」は、「二人称の死」であり、「三人称の死」です。決して「一人称の死」を体験できませんから、「本当の死」は知りません。「本当の死」を知らないのに、「死」を分かったことにして考えている傲慢(ごうまん)さを仏法は批判します。そうやって「死」への固定観念を解体し続けて下さるはたらきこそが、仏法の底力です。

武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)

仏教語 2021 02

僧侶の法話

言の葉カード

 或(あ)るお寺の掲示板に掲げられていた法語です。何か自分に対しての厳しい問いかけに聞こえました。
 人生を問題にしているなら、お金はあった方がよいし、健康にこしたこともありません。しかし、人生そのものが問題となったならば、どのような状況になろうとも、この人生そのものを押し頂けなければ本当の満足とはいえないのでありましょう。
 2月3日は節分です。多くの人たちが言霊(ことだま)さながらに「鬼は外~、福は内~」と言って豆を撒(ま)きます。言葉にして叶うならば苦労はしませんが、人生を問題にしている時の願いなのでありましょう。これが季節の催事に留まらず、日頃の真摯な心として私たちを支配しているのですから厄介であります。
 鬼とは自分にとって都合の悪いこと、逆に福とは都合のよいことでありましょう。そもそも私たちの思考は、二元論、二項対立が過ぎるのではないでしょうか。善悪、優劣、勝負、損得、人生を〇と×で判定しているようであります。思い通りに叶う人生が〇で、叶わないのが×とは余りにも大衆的気分に囚(とら)われてはいないでしょうか。「それが世間の価値観なのです」と反論されそうですが、そのような空気感を産み出し流されるところに、内なる鬼、豆を撒く鬼が潜んでいると思うのです。

金石 潤導氏
真宗大谷派 開正寺住職(北海道)

「南御堂」新聞2019年2月号(難波別院)より
法話 2021 02

著名人の言葉

言の葉カード

 私が思うのは、いま若い人たちは、いや、若い人たちに限らず、私たちは“否定”に会いにくくなっているのではないかということです。あれもいい、これもいい、の消費社会で否定を体験できないでいる。それでいながら無条件の肯定にも会えないでいるのです。
 退職する2年ほど前に、学生が私の授業に対する感想として、こんなことを書いてきたことがありました。「自分が何を愛しているかを伝えてくれた大人はいたけれど、何を嫌悪しているかを語ってくれた大人は先生が初めてだ」と。
 つまり、いまの大人たちは、子どもたちに「これもいいね、あれもいいね」とばかり言ってきて、「こういうことは人としてパスさせられない」とか、「これには絶対に加担できない」といったことをちゃんと伝えてこなかったのではないか。その結果、いまの子どもたちにとって、世界は昼間の花火のように陰影のない、ぼんやりしたものにしか見えていないんじゃないか、と思うのです。
 「本を読めば心が豊かになる」と私たち大人はみんな言うわけですが、心が豊かになるとはどういうことか。それは心が平らになること、ハッピーになることだけではない。心がデコボコになることだって豊かになるということですよね。本を読むことで、これまで自分では癒(い)えたと思っていた心の傷がまた口をあけたり、殺意が目を覚ますこともある。心が豊かになるとはそれらを含めてのことなのに、私たちはこれまで、平らにならすことしかやってこなかったんじゃないか。いまはそのことがとても気になっています。

清水 眞砂子氏
児童文学者・翻訳家

月刊『同朋』2013年2月号(東本願寺出版)より
著名人 2021 02