

大切な人を亡くした時、私たちは大きな喪失感を抱きます。もう会えない、声が聞けない、触れることは叶わない、そのような寂しさで胸がいっぱいになります。それは亡くなられた方が大切な人であればあるほど深い悲しみとして私たちの心を覆うでしょう。
浄土真宗の宗祖・親鸞聖人は、『浄土和讃(じょうどわさん)』というご和讃(親鸞聖人がお詠みになった仏教讃歌)の中で、
安楽浄土(あんらくじょうど)にいたるひと
五濁悪世(ごじょくあくせ)にかえりては
釈迦牟尼(むに)仏のごとくにて
利益衆生(りやくしゅじょう)はきわもなし
という一首を詠まれています。このご和讃の中で親鸞聖人は、「浄土に往生した方は仏様となり、私たちの悩みや苦しみを照らしてくださる」とお示しになられます。
大切な人を亡くした時、物理的にはその人と関わりを持つことは叶いません。しかし、それでその人とのつながりのすべてが終わってしまうかといえば決してそうではないのでしょう。その人が生きていかれたすがた、そして亡くなっていかれたそのすがたが、今を、そしてこれからを生きる私たちを支えてくれるということがあるのではないでしょうか。
「こんな時、あの人だったらなんて言うかな」、「こんな時、あの人だったらどんな顔をするだろう」。私たちが生きていくうえで、亡き人の声が私たちを支えてくれる「はたらき」として在(あ)り続けていくのだと思います。そして、その「はたらき」のお名前を「阿弥陀(あみだ)さま」と私たちの先輩方は大切に呼んできてくださいました。
そう考えた時、大切な人との別れは「終わり」ではなく、「はじまり」なのかもしれません。
荒山 信氏
真宗大谷派 惠林寺住職(愛知県)
『花すみれ』2020年12月号(大谷婦人会)より
法話 2021 08