2019年神無月(10月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 「諸行」の「行」というのは、「現象」という意味ですから、「諸行無常」とは、「もろもろの現象には、常なるものは無い」ということになります。つまり、あらゆる現象は、一定していて変わらないものなどはあり得ない、ということです。「縁」次第で「果」は異なるのです。しかもその「縁」も一刻一刻と変化しているのですから、現象を固定的にとらえるのは誤りであって、その事実を事実のとおりに受け取りなさい、という教えなのです。
 私たちは頭では理解しているようですが、私たちの素直な思いはそれに背いてしまいます。昨日まで元気だったのだから、今日も元気なのは当然だと思い込んでいます。今日、元気であることは、実に不思議なことで、まことに有り難いことであるはずなのですが、それをそのように実感していません。
 そして、明日も元気であるはずだと、幻想を抱いているのではないでしょうか。それは、何の根拠もない期待に過ぎないのであって、事実とは無関係な思いに過ぎないのです。人は、亡くなる前日まで生きているのです。

『ブッダの教え』

古田 和弘氏
大谷大学名誉教授
『現在を生きる仏教入門』東本願寺出版より
仏教語 2019 10

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 遊戯の「遊」は遊びまわるとか、子どもの遊び、大人の遊び、また遊び人という言葉もあります。また、遊戯の「戯」は、たわむれる、ふざける、じゃれつくといった意味に理解され、戯言(たわごと)などと使われたりします。このように文字一つひとつの意味から考えてみますと、遊戯とは現実に身を置かず適当に遊ぶというふうに受けとられてしまいがちです。しかしこの言葉は、実は仏教語なのです。「遊戯」とは「ゆげ」と読みます。
 遊戯の「遊」は自由自在であること、「戯」は実は「無礙(むげ)」の意で、さまたげ(礙)が無く自由であることなのです。たわむれではありません。
 したがって遊戯とは、あれこれとさまたげばかりの状況にあっても、その真っただなかに身を置いて、いかなるさまたげからも束縛されず自由に活動することを意味します。そのような生き方ができたら、人生どれほどすばらしいかわかりません。しかし私たちは、いつもさまたげに邪魔されて不自由な境遇を恨みます。
 しかし、よくよく考えてみますと、人生のさまたげとは何なのでしょうか。あの人のせい? この人のせい? いろいろとさまたげを考えますが、もともと何がわが身をさまたげているのか、さまたげの正体は何なのか、実は誰も確かにはわかっていません。ですので私たちは、わが身をさまたげているものが本当は何であるかを知りたいのです。知ってどこまでも自由に生きることを心底求めているのです。
 そこで、この私たちの自由を希求する願いに応えて、阿弥陀(あみだ)さまはこの濁世(じょくせ)にはたらきます。
煩悩の林に遊びて神通を現じ、生死の園に入りて応化を示す(※)」
 阿弥陀さまは人生というさまたげ多き煩悩の林のただなかにあって、自由に活動され(遊)、私たちそれぞれの苦悩の現実に応じて自在にいろんな姿をとられて(戯)、ご説法くださっているのです。どこまでも不自由な私たちの現実に無条件に寄り添い、いかなる世界をも排除しない阿弥陀さまの活動こそが真実の遊戯であり、恵みなのです。遊びがいたるところで商品化されている現代、本当の遊びとは何か考えてみたいものです。

※親鸞作の「正信偈(しょうしんげ)」の一節

大江 憲成氏
九州大谷短期大学名誉学長

『暮らしのなかの仏教語』(東本願寺出版)より
仏教語 2019 10

僧侶の法話

言の葉カード

 現代社会は今、豊か過ぎるくらい何でもありますが、その中で何がないかといえば、恐らく「安心」や「尊ぶ」ということではないでしょうか。いつ、どんな形で病に襲われるかわからないし、長く生きれば確実に心身の機能は衰えていく。そして、間違いなく命を終えていかなければならない。それは自分だけの問題ではなく、愛する人ともそのようなことが起こってきます。
 そのようなことに顔を背けず、ごまかさず、逃げずに引き受けていける世界がどこにあるのでしょう。「何が起こっても安心して生きていける」ということは、「苦しさやつらさが解消する」という意味ではありません。苦しいけど安心していられる。不安だけど安心していられる。そのベースとなるところの地に足が着いているかという、その大地を信頼できるかというのが「安心」です。
 本来仏教は、私たち人間がどのように尊く生きられるか、安心して生きられるかということを考える教えなのですが、生活の中からそれらが抜けてしまった。
 お参りする時に、手を合わせる先は本尊です。本尊というのは、「本当に尊い」ということ。手を合わせる行為は、「私にとって本当に尊いということはどういうことなのか」ということを確かめ、問うことです。そういう営みなはずなのに、私たちの日常の中で「尊く」ということが抜けてしまっているのではないか。実際に、「尊いということはどういうことですか」と聞かれると上手に答えることができにくいでしょう。
 例えば、強い人、賢い人、美しい人、やせた人と、これらには順番がつきます。しかし、「尊い」人には序列や順番がつきません。いかなる境遇にあっても安心して生きていける道。それが何であるのかということが、仏教のテーマです。歳を取っても、病気になっても、大事な人と死に別れることになっても、自分自身の死ということが迫ってきても、それでも毎日を意味のある人生として、あるいは、尊い人生として生きていくというのはどこで成り立つのかということでありましょう。

真城 義麿氏
真宗大谷学園専務理事

丸の内親鸞講座より
法話 2019 10

著名人の言葉

言の葉カード

 歳を重ねるほど、私たちはいろんな経験や出来事に遭遇(そうぐう)します。良い事ばかりというわけにはいかず、時には出あいたくないことも起こってしまう。「どうして私だけ…」という思いになったり、「苦しみから抜け出せないんじゃないか」と思ったり。時間がたてば解決してくれるとは、到底思えないのもまた事実です。それがこの言葉でいう「悪い糸」なのでしょう。
 こんな言葉があります。「悲しみに出会わなければ、見せていただけない世界がある」。誰だって悲しいことには出会いたくありません。しかし、その悲しみをとおすことで、これまで思いの至らなかったことに気がついたり、同じように行き詰まってしまった人に手を手向けたりできることもあります。
 順調に物事が進んでいるときはあまり気になりません。ですが、実は目に見えないだけで、誰もが皆、「悪い糸」と感じてしまう経験を抱えています。
 人生という編み物は、一つとして同じものはありません。その「悪い糸」はなぜ私に必要なのか。そのことを心に抱え、丁寧に編んでみてはいかがでしょうか。

シェイクスピア
劇作家(イングランド)

著名人 2019 10