私たちはみな、自分の幸せを願います。また、自分にとって大切な人の幸せをも願います。しかし、関わりがない(と自分では思い込んでいる)他者の幸せを願うことは、あまりありません。この言葉は、私たちの中にある生命そのものに対する慈しみを呼び起こすと同時に、他者の幸せを願うことが難しい私たちの姿を克明に描いています。
では、いったい仏教が語る幸せとは何でしょうか。同じく『スッタニパータ』の中に「こよなき幸せ」と呼ばれる章があります。その章は、次の言葉で締め括られます。
世俗のことがらに触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏(あんのん)であること、―これがこよなき幸せである。
様々な困難に遭遇し、自分の思いどおりにいかず、思いが満たされないとしても、心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏であること、それが幸せであると説かれています。視界に入らない他者に眼を凝らし、想像が及ばない世界に身を置く他者を知るためには、自分自身が落ち着いていなければなりません。自らが、様々なことがらに触れ、心がかき乱されてしまうような、他者の不幸すら願ってしまうような状態にあるのであれば、「身・口・意の三業(さんごう)」を整える必要があると仏教は説きます。己の振る舞い「身(しん)」・言葉遣い「口(く)」はすべて心「意(い)」に基づいているので、まずは心を整えることが先決です。そうして心を整える際に指針となるのが、慈しみなのです。
誰もが自身の幸せを願うように、私の眼の前にいる人も、私の眼にはうつらない人も、この私と同じように、自身の幸せを願っています。そのことに思いをいたし、自分を犠牲にすることなく、己の振る舞いと言葉遣いに注意して行動すること。それが幸せを実現するための第一歩となります。
『スッタニパータ』(原始仏典)
大谷大学HP「きょうのことば」2017年1月より
教え 2018 09
近所に「大衆酒場」という暖簾(のれん)の飲み屋さんがあります。以前は流通していた「大衆浴場」、「大衆芸能」、「大衆文学」など、今ではあまり目にしなくなりました。この言葉はもともとは仏教語だったようです。
三帰依文(さんきえもん ※)には「僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して、一切無碍(むげ)ならん」と記されています。正確には「だいしゅう」と発音するのでしょう。仏教用語での「大衆」は仏法によって調和のとれた人々の集まりという意味です。
ある先生が「私は一切衆生(いっさいしゅじょう ※)の中のひとりだが、同時に、一切衆生を代表するひとりでもある」と言われていました。大衆の中のひとりだということになると、「その他大勢の中のひとり」という意味になり、なんだか元気が出てきません。「自分なんかいなくても世の中にはまったく関係ないぜ!」という感情がわいてきます。しかし、大衆を代表するひとりだということになると、ちょっと違います。ご飯を食べるのも大衆を代表して食べているのかもしれない。腹を立てるのも、大衆を代表して腹を立てているのかもしれない。自分は大衆を代表して生きているのかもしれません。こうなってくると、生きることに前向きになってきます。このちっぽけな自分に、まったく愚かしい自分に衆生を代表する意味が与えられる。代表する資格なきものに、代表する意味が与えられる。この醍醐味(だいごみ)が「大衆」という言葉の響きにはあるように思います。
- 三帰依文
- お釈迦さまが説かれた「法」、法に目覚めた「仏」、法を依りどころとする人の集まり(=「僧」)の3つを「三宝(さんぼう)」といい、「そのことを大切な宝ものとして生きていきます」と、法話の前などに唱和される文。
- 一切衆生
- 全ての生きとし生けるもの
武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
月刊『同朋』2001年10月号より
仏教語 2018 09
私は北海道にご縁がありまして、日高地方のコンブ漁師の方と出会いました。その方はコンブ漁師が嫌で嫌で、若い頃に東京へ出て本当に自分の好きなことをやりながら過ごしたそうです。しかし時が経つにつれ、その方は「楽しいけれど、もういい」と思われたのだそうです。何かが足りない。もうこんな生活はいいと、北海道へ帰りコンブ漁師になったそうです。そしてこうおっしゃいました。
「私も63歳になった。両親を見送って、子育てが終わり、私の人生もあと20年。何の意味があったのだろうか」と。私は、その方に人間は意味を明らかにせずにはおれないということを教えていただきました。人間が生きる道を問い尋ねるには、何らかのきっかけが起こるということです。
真宗大谷派のあるお寺の門前にこんな言葉が掲(かか)げられていました。
「昔は何もなかったが、何かがあった。今は何でもあるが、何かが足りない」
本当に何が欲しいのか。物はたくさんあるのですけれども、本当に必要なものは何かと問われると、それが何かが分からない。これは貧しさということでしょう。そんなことを現代の問題として感じました。どんなに時代が豊かになろうとも、やはり人間というのは、人間関係の中で悩みを抱くものです。本当に何とも言えない痛みや空虚さを感じるものです。人間が抱えるその好ましくないと思えるような様々な問題が「さぁ、道を訪ねていこう」という形で実は人を押し出していると、私は教わってきました。
酒井 義一氏
真宗大谷派 存明寺住職(東京都)
「真宗会館のつどい」より
法話 2018 09
仏教を選ぶということを日本人は忘れている。気が付いたら、いつの間にか葬式を仏教でやっている。これでは選んだことにならない。
仏教が本当にいいものなら、一度捨てても選び直せます。一度捨てて、他の宗教や近代思想や哲学、そういうものと比べてご覧なさい。そこまでやって、自分の選択で仏教を選んだら、そのときは本物です。そのとき一人ひとりに、自分の存在はこれでいいのである、自分は何のために生きている、そういう座標軸がそなわります。そうしたら、お金をどう使うか、選挙でどう投票するか、経済をどう動かすか、文化、芸術をどのようにすればいいのか、自分は他の人たちのために何をすればいいのか、それが明らかになります。
橋爪 大三郎(社会学者)
「サンガ」№137より
著名人 2018 09