2018年睦月(1月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 この言葉は、親鸞の和讃(※)の一節です。その全文は次のようなものです。

よしあしの文字をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを 善悪の字しりがおは おおそらごとのかたちなり
(よしあしという文字を知らない人はみんな、真実の心を持った人です。善悪の文字を知ったかぶりして使うのは、かえって大嘘の姿をしているのです。)

 この和讃は、親鸞が自らを省みて述べた短い言葉ですが、真理を求めて学問する者ですら陥る、そんな落とし穴の存在を教え示しているように思います。本気に探求する者だからこそ自らを確かなものと信じて邁進(まいしん)するのでしょう。しかし、それが誰もが賞賛する知的な営みと態度であるがゆえに、余計に気づくことが難しい落とし穴があるのです。
 「まことのこころ」を見失わずに、学び続けること。それは至難(しなん)の業(わざ)かもしれません。それでも、私たちは学び続け、思索しなくてはなりません。悲しいかな、私たちは、それほどに傲慢(ごうまん)な存在なのです。そこに、この和讃に込められた親鸞の慚愧(ざんき)と、自らを戒(いまし)めたこころが感じられるのです。

和讃
親鸞が人々に親しみやすくつくった詩

親鸞「正像末和讃」

大谷大学HP「きょうのことば」(2013年6月)より
教え 2018 01

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 学校の廊下に張り出されている「他人に迷惑をかけないようにしましょう」といった標語。この「迷惑(めいわく)」は、人に不利益とか不都合をもたらす意味に使われますが、実は仏教語です。
 迷(めい)は智慧(ちえ ※)がなく生きることにまよい、惑(わく)は途方にくれてとまどうことを指しています。つまり、人間として生まれた意義や生きる喜びを見出せずに、呆然と立ち尽くしてしまう私たちのさまを意味する仏教語です。
 実は「迷惑」は他人にかけるものやかけられるものではなく、自分にかかってきているもの。仏さまは、そんな迷い込んでいる私たちにいつも寄り添ってくれています。

「智慧」
知識や教養を表す知恵とは異なり、自分では気づくことができず、見ることができない自らの姿を知らしめる仏のはたらきを表す。

仏教語 2018 01

僧侶の法話

言の葉カード

 親鸞聖人は、明日どうなるかわからない状況の中で生きている人たちに対して、あなたには「お念仏(ねんぶつ)」しか残っていないと勧(すす)められました。京都の真宗本廟(しんしゅうほんびょう/東本願寺)は、強大な権力をもった人、莫大(ばくだい)な財産をもった人が作った場所ではありません。本当に明日まで生きられるかどうかわからない人々が、「お念仏」に促される素直さによって、力を合わせて造営してきたのです。それは、自分たちの喜びの思いを形にあらわしたのです。阿弥陀仏(あみだぶつ)への素直な心、そういう心が確かめられる場所なのです。そういう心が動き始める場所なのです。だからこの「場」が重要な、そして特別な意味を持っているのです。真宗本廟は、ただの空間ではありません。本願(ほんがん ※)を喜ぶ思い、これしかないという思いが渦巻いている「場」なのです。そういう「場」をお互いに感じ取り合いたいと思っています。

本願
全ての生きとし生けるものを救いたいと発された阿弥陀仏の願い。

古田 和弘氏(大谷大学名誉教授)

市民講座参加者の東本願寺参拝「法話」より
法話 2018 01

著名人の言葉

言の葉カード

 思うようにいかないという現実の前では、自分の輝かしい理念は崩れる。じゃあそこを逃げ出すかというと、逃げ出すわけにはいかない。目の前の患者さんも、それに関わる自分も理念ほどきれいな人間ではない。新たな難渋が次から次へと出てくる。でも、不思議なことに、臨床はその難渋に支えられているんですね。
 死は避けたいものであるけれども、パートナーですし、それあればこそということもありますし、ご苦労だったということもあって、敬意というのが自分の中からふっと湧いてくる。そういう気を起こさせるものなんですね、死は。無抵抗に、そのものを受け入れられて、そこに横たわっておられる。言葉は悪いですけど、あの頑固じじいもこんなに謙虚だったかと。そういうことも含めて、おのずと敬意というものが湧いてくる。いいよ、死、ご苦労さまでしたということですね。

徳永 進(内科医)

「サンガ」№117より
著名人 2018 01