僧侶の法話

言の葉カード

 かつて信國淳(のぶくにあつし ※)という先生が「わかってもわからんでもいいから、お念仏(ねんぶつ)申しなさい。そしてお念仏によって育てられなさい」とおっしゃいました。人間というのは仏さまのはたらきによって、また如来(にょらい…「阿弥陀如来」)によってお育てに預かることが大事だと。では、育てられるとはどういった意味なのでしょうか。仏教を学んで賢い人間になる、知識や教養に溢れた人間になる、立派な人間になっていく、もう少し優しい心を持つような人になっていく、となるように育てられるという意味なんでしょうか。
 育てられるということは、如来の問いかけを聞く者となっていくこと。日々起こる事象、事柄を通して、「あなた自身どういう人間として生きていますか」。あるいは「煩悩具足(ぼんのうぐそく)であるあなた自身に帰っていますか」という問いかけをきちんといただくということが、お育てに預かるとか念仏に育てられるという意味なのではないかと思うのです。決して誰にも負けないような人間になっていくことが仏法(ぶっぽう)を聞くことの意義ではないのです。

信國淳
1904~1980。元大谷専修学院院長、大分県來覺寺前住職。

中野 誠二氏
真宗大谷派 大昭寺住職(北海道)

真宗会館「日曜礼拝」より
法話 2018 04