「会釈(えしゃく)」と言いますと、チョット頭を下げて軽く挨拶をするという時に使うことが多いようです。ただ辞書でその意味を引いてみると違う意味が出てきます。「①仏教語、一見矛盾しているように思われる異義、異説の相違点を掘り下げて、その根本にある矛盾しない真意を明らかにすること(会通/えつう)。」という意味が最初に出てきます。続いてそれに付随して、「②あれこれ納得できるような解釈を加えること。」、「③一方的でなくいろいろな方面に気を配ること。」、「④申し開き。」とあり、「⑤儀礼的な口上をのべること。あいさつ。」となっていて、「会釈する」「会釈を送る」など普段使われる用法は最後の方になっています。
お釈迦様は、悟りを開かれてからその教えを、いろんなところであらゆる人に説かれお話しされました(仏説/ぶっせつ)。その説かれ方は、時に応じ人に応じて説かれるものでしたから、言葉の上では矛盾することも多かったのです。例えば、罪を犯した者も全て救われるのだという教えも語られていますし、罪を犯した者は救いから除かれるという表現もあります。
それぞれで言われていることを、その時のテーマや誰にお話しされているのかということなどを掘り下げて、矛盾し相違している言い方の両方に通じるお釈迦様の真意を明らかにしていくことが「会釈」とか「会通」と言われるのです。
ただそれは、仏様の説法を、自分の外においてそれを対象的にながめて、矛盾点を理屈の上でつじつま合わせをするということではありません。
仏様の教えは、私自身の身を通して聞くものです。今まで気づかずにいた自分自身の偏(かたよ)りや歪(ゆが)みを知らされて、その教えに頭が下がるのです。ですから「軽く頭を下げて会釈する」というのは、本来の意味から外れているのかもしれません。
四衢 亮(よつつじ あきら)氏
真宗大谷派 不遠寺住職(岐阜県)
仏教語 2025 01