求めているものを手に入れたのに、なぜ人間が満たされないかといったら、求め続けて手に入れたものが、実は自分自身の本当に願い求めているものでなかったということです。我々が頭の中で考えて、こうなればよいのだというのは、仏さまからいわせると「それは、模造品ですよ」ということなのです―。
『歎異抄(たんにしょう)』の第十六章では「日ごろのこころではたすからず」といっております。「日ごろのこころにては、往生かなうべからずとおもいて、もとのこころをひきかえて、本願をたのみまいらするをこそ、回心(えしん)とはもうしそうらえ(『真宗聖典 第二版』780頁)」と、つまり我々の「日ごろのこころ」で「ああなったらいい」「こうあるべきだ」と考えても、悲しいかな模造品しか思いつかないということです。
しかしどんな人の中にも、人心の一番深いところ、「日ごろのこころ」を突き抜けた深いところにある、生きているという存在そのものの中に根源的な魂の要求があるのです。このこと一つが果たせなかったら、私は死んでも死にきれないというものがどなたの中にもあるのです。
『歎異抄』(唯円)
近田 昭夫氏
真宗大谷派 顯真寺前住職(東京都)
『自分でなければやれない仕事』
(真宗大谷派 東京教区発行)より
教え 2025 01
「会釈(えしゃく)」と言いますと、チョット頭を下げて軽く挨拶をするという時に使うことが多いようです。ただ辞書でその意味を引いてみると違う意味が出てきます。「①仏教語、一見矛盾しているように思われる異義、異説の相違点を掘り下げて、その根本にある矛盾しない真意を明らかにすること(会通/えつう)。」という意味が最初に出てきます。続いてそれに付随して、「②あれこれ納得できるような解釈を加えること。」、「③一方的でなくいろいろな方面に気を配ること。」、「④申し開き。」とあり、「⑤儀礼的な口上をのべること。あいさつ。」となっていて、「会釈する」「会釈を送る」など普段使われる用法は最後の方になっています。
お釈迦様は、悟りを開かれてからその教えを、いろんなところであらゆる人に説かれお話しされました(仏説/ぶっせつ)。その説かれ方は、時に応じ人に応じて説かれるものでしたから、言葉の上では矛盾することも多かったのです。例えば、罪を犯した者も全て救われるのだという教えも語られていますし、罪を犯した者は救いから除かれるという表現もあります。
それぞれで言われていることを、その時のテーマや誰にお話しされているのかということなどを掘り下げて、矛盾し相違している言い方の両方に通じるお釈迦様の真意を明らかにしていくことが「会釈」とか「会通」と言われるのです。
ただそれは、仏様の説法を、自分の外においてそれを対象的にながめて、矛盾点を理屈の上でつじつま合わせをするということではありません。
仏様の教えは、私自身の身を通して聞くものです。今まで気づかずにいた自分自身の偏(かたよ)りや歪(ゆが)みを知らされて、その教えに頭が下がるのです。ですから「軽く頭を下げて会釈する」というのは、本来の意味から外れているのかもしれません。
四衢 亮(よつつじ あきら)氏
真宗大谷派 不遠寺住職(岐阜県)
仏教語 2025 01
「凡夫(ぼんぶ)はもとより煩悩具足(ぼんのうぐそく ※1)したるゆえに、わるきものとおもうべし」(『親鸞聖人血脈文集/しんらんしょうにんけつみゃくもんじゅう ※2』『真宗聖典第二版』727頁)
我々は、善いこともしているようにも思いますが、親鸞聖人は「わるきものとおもうべし」と言われるのです。
敬老日 孫をあずけて 子は出掛け
実家とは 無認可無料 託児所か
親子兄弟の間であっても、自分からしか見えませんから、「来て嬉し 帰って嬉し」の孫をあずかりながら、文句の一つも言いたくなるのであります。
「正信偈(しょうしんげ ※3)」を見ますと、曇鸞大師(どんらんだいし)のところでは、「惑染(わくぜん)の凡夫」、道綽禅師(どうしゃくぜんじ)のところでは、「一生造悪(いっしょうぞうあく)」、源信僧都(げんしんそうず)のところでは、「極重悪人(ごくじゅうあくにん)」、源空・法然上人(げんくう・ほうねんしょうにん)のところでは、「善悪凡夫人(ぜんあくぼんぶにん)」とあります。
高僧方は、本願に遇(あ)われて、凡夫の自覚に立たれていたことが示されています。それは、自力の計らい、全部、自分の都合からしか発想しないことの愚かさ、罪の深さを教えられているのでありましょう。
私は、仏跡をよく訪ねるのですが、初めてインドへ参りました時に、ホテルのロビーの世界地図を見てびっくりしました。地図の真ん中にはインドが描かれていますから、日本は、右端の上に小さく描かれているだけでした。新聞でも放送でもみな自国が中心ですから、日本では日米・日中・日韓ですが、アメリカへ行けば米日、中国では中日、韓国では韓日になるのであります。
京都の路地は、車の一方通行が多いので、友人が車で訪ねてくださる時には、「家の裏に病院があります」と言います。するとその病院のところまでこられて、電話をかけてこられます。その時は、仕方がありませんから「その裏にうちの家があります」と言いますが、思いはいつも自分が表なのです。
仏さまの「煩悩具足の凡夫よ」との呼びかけは、自分では気づこうともしない闇、自分では気づけない闇を照らし出してくださるのです。
それで聖人は、「凡夫はもとより煩悩具足したるゆえに、わるきものとおもうべし」と言われるのでありましょう。
- 1 煩悩具足
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様々な煩悩をすべてそなえて生きていること。
- 2 『親鸞聖人血脈文集』
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親鸞聖人が門弟に宛てて書いた手紙類をまとめたもの。
- 3 正信偈
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正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)。真宗門徒が朝夕お勤めする親鸞が書き記した漢文の詩。後半の段で親鸞が大切にされた7人の高僧の教えが讃えられている。
松井 憲一
真宗大谷派 善龍寺(三重県)
大谷大学元非常勤講師
『真宗の生活』2019年版
(東本願寺出版)より
仏教語 2025 01
このことばは、フランスの作家・飛行士 サン=テグジュペリ作『星の王子さま』の一節にあることばです。この小説は、児童文学でありますが、大人向けのメッセージに満ちあふれていて、人間にとって大切な事柄、真実の教えが随所にちりばめられています。
小説の中で王子は「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」と教えられました。
ただ目に映るものが必ずしも真実とは言えないこと、心の目で見ること、子どものように心の曇りがなく、純真な目でものごとを見ることが大切であることをこの小説は伝えています。
人は、正しくものを見ているつもりでも、自分にとって損か得かという自己中心的で自分勝手な見方でしかものごとを見ていないため、何が本当で何が偽りなのかを見極めることができません。
現代社会に生きる私達は、目に見えるものばかりに心を奪われて、数値ばかりを追い求めてきました。その典型が経済至上主義の考え方であると言えるでしょう。その結果、私達は、大切なものを見失い、目に見えない多くのものに支えられていることに気付かなくなってしまったのではないでしょうか。
今こそ、物質の豊かさではなく、心の豊かさ、心の糧を大切にすべき時だと思います。そして、一人ひとりが、ものごとの本質、真実の姿、本当に大切なものを見つけていかなければならないと思います。そのためには、純真な子供の心と真実を見定める智慧(ちえ ※)の眼が必要であります。
仏教の教えをいただく私達は、大いなる仏の慈悲(じひ)によって、生かされていることに気付き、その慈悲の中に目に見えないけれども確かにある大きなはたらきに気付くことができるはずです。その見えないけれども確かにあるはたらき(慈悲の光)に照らされて、自分自身とまわりのすべてのものを見ることにより、ものごとの本質・真実を見定めていくことが最も大切なことだと思います。
皆さんにとってかんじんなこと、本当に大切なことは何でしょうか。心の目でしっかりと見つけてください。
- 智慧
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自分では気づくことのできない自らの姿を知らしめる仏のはたらき。
『星の王子さま』(サン=テグジュペリ)
光華女子学園HP「今月のことば」
(2012年8月)より
著名人 2025 01