僧侶の法話

言の葉カード

 人はだれでも自分の死を意識したときに「本当に大切なものは何か」が問われます。この問いによって初めて迷いを超えた真実の世界(浄土)に目を向けることができます。
 どうあがいても思い通りにならないのが自分の死です。そうであるからこそ、空(むな)しく終わる人生ではなく、いのちを全うする生き方を求めたいとの衝動がこの私にも沸きあがってくるのでしょう。このままでは死んでゆけない。生まれてきて良かったといって死んでいきたい…。
 南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)とは、人間の生活と悩みを知り抜いた阿弥陀如来(あみだにょらい)が、「思い通りになることが幸せだ」と思い込み迷(まよ)い惑(まど)う私に呼びかけ、思いを根底から破って、解放しようとする〈願い〉のメッセージなのです。この私にかけられた人生の本源的な〈願い〉に目覚まされて生きるのが、念仏申す生活なのです。

 「念仏は、そろばんの“願いましては、ご破算”」(坂東性純/ばんどうしょうじゅん ※)という言葉があります。南無阿弥陀仏の呼びかけを聞くところに、私が握っている願望や計算が知らされ、その身勝手さに頭が下がることで思いを手放すことができるのです。
 ただ、どこまでいっても自分の身辺整理は自分の計算通り、思い通りにしたいものですし、執着をなくすことは容易ではないでしょう。ご縁によっては、老いや病の影響で受け入れがたい厳しい境遇を生きざるをえない場合もあることでしょう。そうであったとしても、と言うよりは、そうであるからこそ「思い通りになることが幸せだ」との思い込みを破って、「たとえ思い通りにならない人生であっても、与えられたいのちを〈終わり〉まで〈活き活き〉と生きてほしい」との仏の〈願い〉を聞き、目覚めを頂くことの大切さが説かれているのです。

坂東性純
真宗大谷派坂東報恩寺前住職

藤谷 真之氏
真宗大谷派 佛念寺住職(山梨県)

真宗会館ホームページ
終活コラム『真宗の終活』1-(2)より
仏教語 2025 02