2025年如月(2月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)という世界は、悪を転じて徳を成す世界です。悪というものを消し去って徳に成るのではなく、悪が徳へと転じていく。光があたることによって、雨上がりの虹のように、悪がそのまま徳へと転じていくのだと親鸞聖人は仰っておられます。これは一体どういうことなのか、私に仏教を教えてくださったとある先生が、梅干しのたとえ話をしてくださいました。

 青い梅は、そのままでは食べることができないわけですが、その青い梅を綺麗に消毒して、塩や梅酢、しその葉に付け込んで、やがて梅雨が明けた頃に天日に干し、しばらく熟成させることによって、青い頃には毒があった梅が、薬ともなる梅干しへと転じていく。つまり、毒が消え去って梅干しになるのではなく、毒を抱えたまま、いろいろな手間暇をかけることによって、あるいは光に照らされることによって、薬へと転じていくんだと。私はこの梅干しのたとえ話がとても心に残りました。

 悪、あるいは毒とはなんでしょうか。様々なことが言えるかと思いますが、それは人間が抱えるこの世の生きにくさ、辛さ、苦しみ、悲しみと置き換えることができるのではないかと考えています。それらが綺麗さっぱりなくなって、徳と呼ばれる世界を獲得するのではなく、悲しみや苦しみを大事に抱えながら、それが教えの光に照らされることによって、我が人生を照らし出していく道しるべのような、あるいは薬のような役割へと転じていく、そういう世界なのではないかと受け止めています。

『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』(親鸞)
酒井 義一氏
真宗大谷派 存明寺(東京都)

大谷祖廟「暁天講座」より
教え 2025 02

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 お寺の子ども会で質問されました、「親離れってどうすればできると思う?」。いきなり言ったのは、6年生のM君。たぶん学校で友達に何か言われたのでしょうか。そんなことはわからないなぁと思いながら、「いや、親の方もなかなか子離れができないんだよ。おとなになった我が子に、いつまでも世話を焼くので子どもたちが嫌がることが多いよ」と言いました。
 それを聞いたM君、「おとなになっても世話を焼かれるのはいやだなぁ、今でも口うるさいと思うのに」と言います。「お母さんやお父さんの言う通りにするんじゃなくて、口うるさいと思えるなら、親離れしかけているんじゃないの、それはたぶん自然とできることだと思うよ」と話しました。M君は「そうかなぁ」と半分納得したような顔を見せました。
 他人どうしでも親子でも、その間が愛情で結ばれ関わることがあります。ただ、人間の愛情は、愛する相手の自由や主体性を奪ってしまうことになることがあります。以前、中学生になった息子が乱暴な言葉遣いをし、言うことをきかなくなったがどうしたものかと相談を受けたことがあります。いつまでも優しく可愛い息子でいて欲しいというお母さんの気持ちもわかりますが、息子さんは親から独立して歩んでいく準備が始まっているのだと思いますとお話ししました。
 仏教では、人間の愛を「乾き」で表し「渇愛(かつあい)」と言います。喉が渇いて水を欲しがるように、相手を自分の潤いにしようと求め、自分の所有物にするように執着してしまうということです。その問題に気づかせようとはたらく仏様の愛情は慈悲(じひ)と表されます。

四衢 亮(よつつじ あきら)氏
真宗大谷派 不遠寺住職(岐阜県)

仏教語 2025 02

僧侶の法話

言の葉カード

 人はだれでも自分の死を意識したときに「本当に大切なものは何か」が問われます。この問いによって初めて迷いを超えた真実の世界(浄土)に目を向けることができます。
 どうあがいても思い通りにならないのが自分の死です。そうであるからこそ、空(むな)しく終わる人生ではなく、いのちを全うする生き方を求めたいとの衝動がこの私にも沸きあがってくるのでしょう。このままでは死んでゆけない。生まれてきて良かったといって死んでいきたい…。
 南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)とは、人間の生活と悩みを知り抜いた阿弥陀如来(あみだにょらい)が、「思い通りになることが幸せだ」と思い込み迷(まよ)い惑(まど)う私に呼びかけ、思いを根底から破って、解放しようとする〈願い〉のメッセージなのです。この私にかけられた人生の本源的な〈願い〉に目覚まされて生きるのが、念仏申す生活なのです。

 「念仏は、そろばんの“願いましては、ご破算”」(坂東性純/ばんどうしょうじゅん ※)という言葉があります。南無阿弥陀仏の呼びかけを聞くところに、私が握っている願望や計算が知らされ、その身勝手さに頭が下がることで思いを手放すことができるのです。
 ただ、どこまでいっても自分の身辺整理は自分の計算通り、思い通りにしたいものですし、執着をなくすことは容易ではないでしょう。ご縁によっては、老いや病の影響で受け入れがたい厳しい境遇を生きざるをえない場合もあることでしょう。そうであったとしても、と言うよりは、そうであるからこそ「思い通りになることが幸せだ」との思い込みを破って、「たとえ思い通りにならない人生であっても、与えられたいのちを〈終わり〉まで〈活き活き〉と生きてほしい」との仏の〈願い〉を聞き、目覚めを頂くことの大切さが説かれているのです。

坂東性純
真宗大谷派坂東報恩寺前住職

藤谷 真之氏
真宗大谷派 佛念寺住職(山梨県)

真宗会館ホームページ
終活コラム『真宗の終活』1-(2)より
仏教語 2025 02

著名人の言葉

言の葉カード

 「迷惑かけて ありがとう」。昭和の時代、プロボクサーからコメディアンになった、たこ八郎さんの言葉です。実はこれこそ、終活の極意ではないでしょうか。
 終活は、ともすると「迷惑をかけたくない」あまり、すべてを「自分で」となりがちです。確かに、人生最後の段階でどんな医療・介護を受けたいかを考えることや、遺言作成など自身ですべきことはあります。でも、死後に自分で棺に入ったり、さまざまな手続きをしたりはできません。最後は必ず「誰か」を頼らねばなりません。だから私は「終活を意識したら集活」が大切だと考えます。集活とは「集うて話をする、縁を結ぶ」という造語です。
 他者と生きるとは、多かれ少なかれお互いに「迷惑」をかけあうことです。詰まるところ「迷惑をかけない=孤立」です。迷惑をかけあえる関係性や、手間を迷惑とは感じない関係性を結ぶこと。最期に「ありがとう」といえる相手のいること。それこそが豊かな人生ではないでしょうか。
 たこさんはボクシングの後遺症で失禁や記憶障害があり、周りに「迷惑」をかけたかもしれません。それでも多くの人に愛されました。葬儀では赤塚不二夫さんら友人たちが泣きながら万歳三唱で見送ったそうです。

星野 哲(さとし)氏
ライター・朝日新聞元記者

『ライフエンディングノート
生きることを始めるための遺言ノート』

(東本願寺真宗会館)より
著名人 2025 02