聖徳太子が制定したとされる十七条憲法は、「和を以て貴しと為す」というたいへん有名な文言から始まります。国造りの理念を表す憲法の第一条に「和」を掲げるのは、太子自身が戦乱を経験し、人と人とが争い合うことの悲惨さと空しさを実感していたからでしょう。太子は、何よりも平和な国を造りたいという願いを持っていたのです。
では、そもそも人と人とが争い合う原因はどこにあるのでしょうか。第一条ではその原因が、このように述べられています。
「人には皆、仲間を作ろうとする心がある。それが原因で争いが絶えないのだが、その道理を達(さと)っている者は少ない。」
「党(たむら)」とは「仲間」という意味であり、現代でも「たむろする」という言い方があるように人が群れ集まる様子を表します。私たちは、学校や社会において人と人との関係を築きながら生きています。その中で、おのずと気の合うもの同士が集まってグループができることでしょう―。
しかし、仲間を作ること自体が、実は知らない間に仲間以外のものを生み出しているのです。そして、自分たちにとって不都合な存在や利益を脅かす存在が現れた時には、それを排除しようとする心が起こることもあります―。
太子は、人間にはそのような問題があることを見抜き、「達る者少なし」と、その道理に気付くことのない人間の愚かさを指摘しているのです。
仲間を作ることは大切なことです。しかし、確かめなければならないことは、仲間を作ることによって、当然、仲間以外の外の世界も作っているということです。そのことによって傷つけているものが存在しないだろうか、また閉塞的な人間関係となっていないだろうか、と思いを致せるようになることが大事なことなのではないでしょうか。人々が本当に共に生きていける関係を考えていくことが、私たちの課題であるように思われます。
十七条憲法
大谷大学HP「きょうのことば」2008年10月より
教え 2023 11
「談合」という言葉を聞くと、すぐに犯罪を連想される人も多いでしょう。ところが、仏教語の「談合」はとても大切な意味を持っています。本願寺第八代目の蓮如(れんにょ)は、「寄り合い談合せよ」と重ねて語られます。「談合」とは、仏法(ぶっぽう)をどのように聞いているのか、それをお互いに腹を割って話し合えという意味です。信仰は極めて内面的なことですが、それを、敢えて言葉化せよというのです。言葉化することで、聞き方の間違いをお互いに確かめられ、また新たな発見をすることがあるのです。
現代では、「談合」という言葉よりも、「座談会」という言葉に馴染みが深いのではないでしょうか。浄土真宗では、講師の法話が終わった後、聴衆と一緒に話し合いをする習慣があります。これも「談合」という伝統を引き継いでいるのです。
「座談会」では、法話の中身を味わいなおしたり、あるいは普段、疑問に思っていることなどが忌憚(きたん)なく話し合われます。しかし、自分の内面を語るには勇気が必要です。人間は優越感と劣等感の生き物ですから、「こんな初歩的なことを聞いてもよいだろうか」、「ひとからバカにされやしないだろうか」などの内面の声が聞こえてきて、発言を控えてしまうこともあります。発言の得意な人もあれば、自分の内面を語ることが苦手な人もおられます。その人は、その場にいるだけでよいのです。他の聴衆の質問や感想を聞くことを通して、新たに仏法を味わうことができるからです。浄土真宗は、「言葉の宗教」ですから、どこまでも、「言葉」を拠り所とします。なぜならば、「言葉」は人間が考えたことの結果ではなく、物事を「言葉」で考える生き物だからです。ですから、「言葉」によって傷つくこともあれば、「言葉」によって救われることもあるのです。「言葉」をどう受け止めるかによって、その人の人生までもが変えられていくのです。「たかが言葉」ですが、「されど言葉」なのです。
武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
仏教語 2023 11
なにげない言葉一つで 真黒に染まったり
なにげない言葉一つで ほんのり桃色にみえたり
なにげない言葉一つで 世の中が真暗になってみえたり
なにげない言葉一つで 世の中がにじ色になってみえたり
単純な私です バカがつくほど単純な私…
きっと私も 人を なにげない言葉一つで
真暗に染めることだって…
だから私 なにげない言葉一つ 許せる 私になりたい
昔、みた中学生か高校生の人の詩です。
私も日々、さまざまな言葉一つに、一喜一憂して落ち込んだり、自己満足したりの生活です。許せないことばかりです。「許せる私になりたい」とは、難しいことですね。でもここに、言葉と向き合う、苦悩と叫びがあります。
その言葉を受け取る私の心の正体は何かと言えば、自分の都合に合うか、合わないか、です。仏教では「六道」と言われますが、一喜一憂しながら、日々、この六道をめぐっているのが私の姿です。全部、自分の都合に合うか合わないかが作り出す世界ともいえましょう。そんな私の姿に出会うのも言葉。言葉との出会いを通して、それまでの私の姿・あり方に気づいた新たな私が生まれていくのです。
ただ、その気づきも、その瞬間のことです。いくら気づいた私があっても、日常生活の中で、また自分に正義を立てて生きていくことになっていきます。それが、仏の眼で「凡夫(ぼんぶ)」といわれる私たちの姿です。根底から、その思いは抜けきれないのです。
しかし、一度、言葉との出会いによって気づきがあることは、またその言葉にふれることを通して、自分に気づける道が開かれていくことにもなります。
気づいたこと、生まれたということで終わるのではなく、生まれ続けるのでしょう。繰返し繰返し生まれ続けるのでしょう。そのために言葉との出会いが大切なのです。
二階堂 行壽氏
真宗大谷派 專福寺住職(東京都新宿区)
首都圏慶讃法要特設サイト記念法話より
法話 2023 11
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わたしたちの誰もが持っていて、でも誰もそれがなんなのか本当には知らない。大事にしなければいけない、何よりも価値がある、と言われていても、何故なのかはわからない。一番身近で、でも一番謎めいているもの―命。
命が何なのか、考えるきっかけとしてSFという文学を役立てることはできないだろうか。
SFの定義はいろいろある。Science Fiction、すこしふしぎ、そしてSpeculative Fiction。スペキュレイティヴとは思弁、「理性的、空想的、形而上学的思索」つまりは「思考実験」。
わたしはSFは、IFの文学だと思っている。どこかにIFをいれる。それによって変化する物語を描く。現実をベースにした小説が箱庭だとしたら、その壁をぱたんと倒し、どこまでも想像力を働かせて飛躍する。物理的にも心理的にも、あらゆる法則に縛られない最も自由な文学、それがSF小説だと思っている。
あらゆる小説の究極の目的は、人を描くこと。だからどんなSFも、基本となるテーマは人間だ。そこから、命とは何かを考えることができるかもしれない。
「テセウスの船」という命題がある。船の部品を一つずつ入れ替えていく。全て新しい部品となった船は、果たして元の船と同じと言えるのか。その部品でもう一つ船を作った場合、それは新しい船か、それとも元の船か。同一性の問題。命についても同じことが考えられるかもしれない。
何を持って、命と、人とするのか。
脳と体を入れ替えたら?
脳を複写・転写する技術が生まれたら?
人工知能が人間を越えるとされるシンギュラリティ(技術的特異点)は早ければ2045年にやってくるとされる。ではその時、AIは命を持ったと言えるのか。
こういった問題に、物語の形で取り組み、自由な想像力で答えを模索していけるのが、SFのSFたる醍醐味だ―。
先日、日本映画として公開もされたケン・リュウの短編「アーク」は、人類最初の不死を手に入れた女性の話。彼女の仕事は、遺体にポージングを施し、永遠に保つプラスティネーション施術。これもまた、不死だ。二つの不死が絡み合い、生きるとは何かを問いかけてくる。
わたしたちの人生には終わりがある。だからこそ生きることに意味が、価値があるとされる、だとしたら、不死を得たとき、命の意味は変わるのか。体と脳の関係は。機械生命とは。
生きることは考えることだ。思考し、試行することをもって、我々は命に向き合うことができる。SF小説がその一助になれれば、SFを愛するものとしてこれほど嬉しいことはない。
池澤 春菜氏
声優・第20代日本SF作家クラブ会長
『アンジャリ』第41号(親鸞仏教センター)より
著名人 2023 11