言葉に込められた願いを聞きとった時、その言葉は生きた教えとして私の上に響いてくる。そして、その言葉や願いを通じて教えを示してくださった存在を「諸仏」と親鸞聖人は仰がれたのである。仏という存在も、教えということも、はじめからどこかにあるものではない。偉い方の仰せだから教えになるというわけではない。言葉に願いを聞きとった時、はじめてその言葉が自分をつき動かす教えとなり、そしてその教えを示してくださった存在が、私を目覚め立たせる仏なる存在となるのだ。
この和讃(※)の中で「仏の御名(みな)をきくひとは」とあるが、「きく」とは、願いを聞きとるという意味であろう。
生前中は、居てくれるのが当たり前という思いがあったからであろうか。あらためて父の存在に思いを寄せるということはあまりなかった。
しかし父亡き今、ことあるごとに「親父ならこんな時どうしていたのだろう」と、父について思いを馳せている。思えば、生前中は毎日顔をつきあわせていても、本当の意味で父と出会えてはいなかったのだろう。むしろ父を失った今、より確かな存在として父と出会えているのかもしれない。そして今、父が私に託してくれていた願いを、この身に感じながら生きている。
人は、時に逃げ出したくなる弱さを抱えながらも、そういう願いに背中を押され、歩みを進めることができるのだ。願いに目覚め立って、決してそっぽを向かず、逃げ出すことなく、願いに生きる者となる。これが「不退にかなう」ということであろう。
私にかけられていた「諸仏」の願い。その願いに押し出され、支えられ、ようやく私のような者でも、覚束ない歩みながら、退くことなく歩ませていただいている。
- 和讃
- 親鸞が人々に親しみやすくつくった詩
「浄土和讃」(親鸞)
中島 善亮氏
真宗大谷派 願成寺住職(秋田県)
『今日のことば(2017年)』(東本願寺出版)より
教え 2023 06
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酷い目に遭(あ)うと、ひとは、「そんな殺生な」などと言いますね。でも「殺生」はもともと仏教語です。読んで字の如く「生き物を殺すこと」で、仏教ではこれを罪とし、戒律では第一番目に禁じられます。しかし、「生き物を殺す」ことは、「食べる」ことにつながっています。私たちが食べる動物性タンパク質は、「生き物」のいのちです。鶏肉や豚肉は、「食べ物」ではなくて「生き物」です。「生き物」を殺して、「食べ物」としてきたのが人類です。それを「当たり前」と感じるか、「罪」として感じるか。それを「生き物」は人間に向かって突き付けているのです。
詩人・金子みすゞの「大漁」という有名な詩があります。
「朝やけ小やけだ 大漁だ 大ばいわしの 大漁だ。 はまは祭りの ようだけど 海のなかでは 何万の いわしのとむらい するだろう。」ここには目線の逆転が起こっています。人間から見たイワシではなく、イワシの目から見た人間です。人間はイワシの大漁で大喜びをしているけれども、海のなかでは、何万のイワシの葬式を挙げているだろうと、ゾッとするほどの罪に晒(さら)されます。
さらに、これは金子みすゞだけの話ではなく、これを読んでいる自分自身にまで及んできます。私は、この詩を読んで、言い訳をしている自分を発見しました。肉はタンパク質だから人体には必要なものなのだ、悪いと思っても食べなければ生きてはいけないと。また、人類には、もともと動物性タンパク質を消化吸収する臓器が具わっているのだから、何万年もの間、人類は肉食文化と共に生きてきたのだと。しかし、どれだけ言い訳をしても、言い訳をしている自分からは逃れることができません。
昔のお寺では、毎月28日を「精進日」として、動物性タンパク質を食べない日がありました。その日は、魚や肉は食べず、野菜だけを食べました。月に一日ですが、「精進日」だけは、罪を作らないのですから気持ちがすがすがしくなります。
それで気付いたのです。罪を作って重い気持ちになるのも、罪を作らずに軽い気持ちになるのも、両方とも自分のこころが自分自身を裁いているだけだと。いわば自分で自分を浮かばせたり沈めたりしているだけで、そこには阿弥陀(あみだ)さんはいませんでした。阿弥陀さんは、そんな人間を否定せず、また肯定もしません。ただ悲愛をもって見つめられるのでしょう。この悲愛からの視線を、一生涯受け続けていくのが真宗門徒なのです。
武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
仏教語 2023 06
親鸞聖人が仏教を日本に広めた人物として尊敬する聖徳太子は、「十七条憲法」という文章を遺しました。その十六番目の条文には、次のような一節があります。
其(そ)れ農(なりわい)せずは何をか食(くら)わん
「農業をしなかったら、何を食べるのか」。当たり前と言えば当たり前のことですが、私たちが暮らす社会はこのことが見えにくくなっているなぁとこの一文から改めて感じました。
近くの田や畑、海、山で採れたものだけを食べていた時代は過ぎ去り、農作物や肉、魚介類が世界を流通する時代になりました。農作物を含む自由貿易の促進・拡大を図るTPP協定に、日本は2013年から交渉参加し、協定は18年末に発効しました。日本政府は「攻めの農林水産業への転換」を謳(うた)い、競争力を高める取り組みを進めています。
農林漁業が「競争力」という基準で営まれるようになったのは、いつのころからでしょうか。そもそも農林漁業は競争すべきものなのでしょうか。私たち自身も農林漁業を「儲からない仕事」と見下し、尊敬を忘れてしまったのではないでしょうか。
農業とは、自然を人間の都合で作り変えることです。田んぼは農民の長年にわたる開墾の結果ですし、林業は自然の植生を変えることでもあります。西山さん(※)が畑の虫をつぶしながら農業とは何かを考えるのも、農業が抱える「罪」の問題を考えているのだろうと思います。
私たちは農業を営むことで社会を築いてきました。そして農業を営み、自然を作り変える中で、さまざまないのちを犠牲にしてきました。そう考えると、「其れ農せずは何をか食わん」という言葉も、そうしないでは生きられない人間にとって悲しみの言葉に聞こえてきます。農林漁業への尊敬や恵みへの感謝とは、私たちの贖罪(しょくざい)の心の裏返しでもあるのではないでしょうか。
- 西山誠一
- 農業を営んでいる真宗門徒が集まる「農家奉仕団」を創設。
藤 共生氏
真宗大谷派 福圓寺(福井県)
月刊『同朋』2019年10月号(東本願寺出版)より
法話 2023 06
どうすれば誰もが生きやすい社会になるのか―。
「他者」と「自分」の違いを受け入れられないところに、大きな問題があると感じています。例えば、性的マイノリティの自殺率は高いというデータがありますが、彼らを自殺に追い込むのは、他者の“違い”を認められない人々です。決して、彼らが弱いからではないのです。
その背景には、「同じ日本人なのだから、同じ感覚や気持ちをもっているはず」と無意識に考え、少数派に分類される性質や考えをもつ人を認められないという日本人ならではの傾向があるように思います。
しかし、そもそもマジョリティ(多数派)とマイノリティ(少数派)は、性においてだけでなく、あらゆる分野で存在します。誰もがひとつくらい、人には言えない悩みや不安を抱えているはず。広い視野で考えると、誰もがマイノリティと言えるでしょう。マイノリティの集合体がマジョリティであり、マイノリティについて考えることは、マジョリティについて考えることと同義です。だからこそ、マイノリティに優しい社会は、マジョリティにとっても優しい社会といえると思うのです。
現代の社会においては、自分と他者との“違い”を自ら受け入れられず、生きづらさや苦しみを抱えている人が多くいます。でもまずはそんな自分も受け入れてあげてほしい。そして、一人ひとりが独自のパーソナリティをもつことを知り、お互いに相手の“違い”を認め合えば、誰もが生きやすい社会になるのではないでしょうか。
杉山 文野氏
東京レインボープライド 共同代表
月刊『同朋』2019年9月号(東本願寺出版)より
著名人 2023 06