「子を持って知る親の恩」と言われますように、恩というものは、子が感ずる以前から、すでに親から受けているものでしょう。同じように、お釈迦様、阿弥陀(あみだ)如来の慈悲は、私たちが気づく以前から注がれているのです― 。
現代に生きる我々は、ともすると、この地球上で一番賢いものは人間だと思い込んでいますが、あらゆる生き物の中で、最も迷いが深く、罪が深いのが人間ではないでしょうか。
昔テレビで、ライオンがキリン(シマウマだったかもしれません。ただキリンを襲うこともあるようです)の群れを追いかけ、ついに一頭を捕まえると、その途端、一斉に逃げることを止めた他のキリンが映し出されていました。ライオンは一頭の獲物だけで、その日の食料は十分で、他を襲うことはしないからです。野生の生き物は〈欲〉と生命の〈要求〉がほとんど等しいようです。
しかし、ライオンと違い人間は、目の前に欲しいものがまだたくさんあるのですから、「明日の分も明後日の分も」、あるいは、「いらないかもしれないけれど念のために」と、獲り尽くそうとしているのではないでしょうか。生命の〈要求〉以上に〈欲望〉を持つのが人間です― 。
私は、以前、〈迷い〉とは心のことだと思っていました。しかし、親鸞聖人は「いずれの行もおよびがたき身 」「愚身 」「出離の縁あることなき身 」(『歎異抄/たんにしょう』)と言われています。「身」を持っている以上、〈迷い〉から離れることができないのです。その「身」を抱えた人間に、〈大悲〉の心をもって「念仏もうしてくれ」と呼びかけ、迷っている身に目覚ましめようとする阿弥陀如来の悲しみの声があります。そしてその呼び声を聞き、その声の方へ往(ゆ)け、と押し出してくださる釈迦の慈(いつく)しみの声があります。その釈迦・弥陀の声は、私が気づくよりはるか以前から、ずっとかけられ続けていたのです。
『唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)』(親鸞)
保々 眞量氏 真宗大谷派 光行寺住職(熊本県) 『今日のことば(2010年)』(東本願寺出版)より 教え 2023 07
さまざまな仏典(ぶってん)に、「蓮華(れんげ)」は象徴的な形で描かれます。有名なのは『維摩経(ゆいまきょう)』にある、「高原の陸地には、蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥(おでい)に、いまし蓮華を生ず」でしょう。蓮華は、高原の乾いた土地には咲かず、湿った泥の中にこそ咲くものだと。この「泥」とは、凡夫(ぼんぶ)の煩悩(ぼんのう)や、苦しみ多き日常生活にも譬(たと)えられます。蓮華は美しい花ですが、だからと言って、清水に咲くことはできません。あの美しい花を咲かせるためには、汚れた「泥」が必要なのです。蓮華は、たとえ泥の中にあっても腐りません。逆に、この「泥」を栄養分として美しい花を咲かせます。ここに苦しみを転じて、生きる力に変えてしまう仏法(ぶっぽう)の底力が象徴されているのです。
恐らく先人は、蓮華が泥沼に咲くのを見て感動したのでしょう。なぜ、あれほど美しい花が、泥田の中で咲くのだろうと。さらに、美しい花は清い場所で咲くものだという人間の思い込みが破られたのでしょう。これは、単に泥田に咲いている蓮華のことではなく、まさに、私のこころの問題として受け止められたのだと思います。
「泥」と象徴されるものは我が身に起こる煩悩です。親鸞聖人は「煩悩」を「煩は、みをわずらわす。悩は、こころをなやます」(『唯信鈔文意/ゆいしんしょうもんい』)と言われます。怒りや欲望、嫉妬心や鬱屈した思いで、足を掬(すく)われそうになっているのが日常生活でしょう。この「煩悩」に悩まされ、これさえなければ、どんなに心穏やかに生きられるだろうと思いますが、なかなか思うようにはなりません。親鸞聖人以前の仏教は、この「煩悩」を断ち切ろうとしました。「煩悩」を断ち切ろうとする思いは「菩提心(ぼだいしん)」であり、清いこころなのだと。ところが、親鸞聖人は、「煩悩」を断ち切ろうとする思いすら、「煩悩」から起こったこころだから、決して「煩悩」から逃れることはできないと目覚めたのです。そのことに気がついてみたら、「煩悩」は私が起こせるものではなく、私に起こってくるものだと分かったのです。私が起こせると考えるから、それを断ち切ることもできると考えてしまうのです。本当は「私に起こる」ものなのです。なぜ私に起こるのかと言えば、それは阿弥陀(あみだ)さんが力を示すためです。どのような些細な思い(煩悩)であっても、それは阿弥陀さんが引き起こして下さるものなのです。どこにも「私」という力はなく、すべては阿弥陀さんのはからいであったと教えるためなのです。
武田 定光氏真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
仏教語 2023 07
長期に及んだ首都圏一都三県への緊急事態宣言がいったん解除となったが、相変わらず生活はストレスフルである。そんな中、少しでもすっきりしたいと、雑然としたデスクの片付けを試みた。するとある小さなピンバッジがどこからか出てきた。数年前に開催された仏教学に関する学会で、記念品として一人ひとつずついただいたもので、ありがたい仏像が描かれている……のではなくて、仏教に関するジョークまたはアフォリズムのような一節などが英語で記されている。学会主催校の事務局長を務められ、ジョークの達人として知られるケネス・タナカ博士(※)が米国から取り寄せたものだという。
私がいただいたバッジの文言はあとでご披露するとして、学会の懇親会でほかの参加者の方々とバッジを見せ合ったとき、思わず「くすっ」と笑ってしまった例をまずご紹介したい(恐縮ながらこのピンバッジが今月の「出会い」なので、あまり「ピン」とこないかもしれないが、今回は「くすっ」と言うと同時にコロナ禍のストレスもほんの少しでも「すっ」と吐き出しながらお読みいただきたい)。さてそのバッジの文言は―
There is no I in Buddha
直訳すれば「ブッダのなかにアイはない」。ジョークを解説するなんて「冗談だろう?!」という読者の声は聞こえないふりをして敢えて説明すれば、“Buddha”という単語の綴りのなかに“I” という文字はない、というのが文字面(もじづら)の意味。だがオチは“I” には「私」「我(われ)」という意味もあること……。なんとも洒落た「無我」の表現である。「ユーモアは仏教の教えを伝える効果的な手段でもあるのです」と、タナカ博士は言う。
これに類したものでインターネットでもたくさん見かける有名なジョークがある(ジョークの常として、出典や創作者は不明・匿名のまま、いま風に言えばあちこちに「拡散」されている)。
Why can’t the Buddha vacuum clean corners?
(なぜブッダは掃除機で部屋の隅っこを掃除できないのか?)
Because he has no attachments!
(彼にはアタッチメントがないからさ!)
ここではattachment は掃除機の先端に取り付ける隙間ノズル。でももう一つの意味は……「執着」だ。私たちも心の隅々にまで掃除機をかけたいものだが、掃除機自体も心だから、そこにはどれほど、どんなノズル(attachment)が付いているだろうか― 。
ダライ・ラマ法王が登場するジョークもある。誕生日プレゼントをもらったダライ・ラマ法王。だが箱を開けてみれば中身は空っぽ。そこでひとこと― “Just what I wanted, nothing!”(ちょうどほしかったもの、無(む)だ!)。
笑いは消化によい、と哲学者のカントが言ったらしいが、確かにしょうかもしれない(え? 誤植ですって……?)。だが笑いは一歩間違うと恐ろしい凶器にもなる。人を軽蔑し、文字通り笑い者にして傷つけるようなジョークは許されない。そうしたジョークを聞いてどっと周囲が笑えば、それはもう集団暴力だ。ぜひ心して「消化によい」笑いを噛みしめたいものである。
もちろん仏教は人間の深い苦悩に救いの手を差し延べるものであり、特にコロナ禍で悲しみや不安が世を覆う中、切実な思いで宗教に向かう人も多いだろう。だがそんなときにも、ちょっとした笑いが、心を一瞬でも明るくするささやかな燈(ともしび)になることもあるのではないだろうか。
最後に、学会で私がいただいたバッジに何が書いてあったか。それはジョークではなかった― Outside Wise, Inside a Fool(外見は賢人、中身は愚者)。心の奥底をグサっとひと刺し。みずからの存在の真実に対し深き反省を迫られるピンバッジであった。
ケネス・タナカ
浄土真宗僧侶。武蔵野大学名誉教授。米国国籍(日系三世)。アメリカ仏教研究者として日米で著名。
伊藤 真氏親鸞仏教センター嘱託研究員
親鸞仏教センターHPエッセイ「今との出会い 」より 法話 2023 07
お話を聞いていくなかで、すごく感じるのが、つらいという気持ちはわかるけれども、つらさの根源を探す体力が皆さんには残っていなかったりするんですね。
なんで自分はここまでつらいのだろうか。なんでこの環境に身を置いているのだろうか。なんでこんな社会で暮らしているんだろうか。だから私たちも支援していくなかで、対症療法的な、骨折にバンドエイドを貼っているような気持ちになることも結構あります。
ただ、「死んでしまいたい」という裏にあるのは「きちんと、生きたい」なのかもしれません。生きることに真面目すぎる人が、死を自分の逃げ場としてとらえやすいのかも。私はそのような人たちの味方でいたい。生きること以外からは逃げてもいいのです。
メンタルヘルスケアの相談で、「セルフケアの仕方を教えてください」と言われるんです。でも、本当に必要なことは、年代を問わず、その人やその子にとっての依存先をいっぱい見つけてあげることなんですね。生きる理由を見つけることよりも死ぬ理由を見つけるほうが楽ですし、人に責任を課すよりも自分に責任を課したほうが楽。高度成長で、外に外に行っていたものが、だんだん時代が変化するとともに内に内に来てしまっている。
その依存先というのは、カウンセラーかもしれないし、親御さんかもしれないし、友人かもしれない。自分の大好きなゲームかもしれないし、SNSかもしれない。そういう依存先をいっぱい持っておくことが、本当はメンタルヘルスにはいいんです。でも、依存はいけないとか、セルフケアしなさいというふうに言われてしまう。私は依存先をたくさん見つけてくださいとお伝えしています。
みたらし 加奈氏臨床心理士・公認心理師
真宗会館広報誌『サンガ』 184号より 著名人 2023 07