2021年長月(9月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 平安末期から鎌倉時代に生きた親鸞が唐の時代に活躍した中国の高僧である道綽(どうしゃく ※)を讃えるために作った歌(和讃)の一つです。このことばを、意味を補いつつ現代語訳すると、次のようになります。

(濁世の起悪造罪は 暴風駛雨にことならず)
貪(むさぼ)り、怒りなどの煩悩(ぼんのう)に濁っているこの世において人間がつくる悪や罪は、ちょうど暴風や突然の豪雨のようである。
(諸仏これらをあわれみて すすめて浄土に帰せしめり)
諸々の仏たちはこの悲しい現実を哀れみ、いかなる存在も決して見捨てないと誓った阿弥陀仏(あみだぶつ)の浄土に帰依(きえ)させようとなさるのである。

 道綽の前半生は、隋、唐という強大な国家が中国にできる以前、様々な王朝がみずからの覇権を広げるために、激しい戦闘を繰り返していた時期にあたります。特に彼が生れ育ち修行した場所はいくつかの王朝が抗争を繰り返す地域であったために、彼自身が数多くの悲惨な現実を目の当たりにしたにちがいありません。それゆえに、道綽にとって戦乱などの悪や罪をつくり出す人間の問題は切実なものとならざるをえませんでした。

 上記のことばは、罪悪(ざいあく)がさらなる罪悪をつくり出し、苦悩がさらなる苦悩を生み出していく人間のあり方を、暴風雨にたとえて表現しています。この内容は現代の人類の課題と無関係ではありませんし、日常の私たちのあり方をも照らし出すものです。例えば人類の歴史は、科学、技術の発展により人が手に入れた力が増すほど、それによってつくられる悪や苦しみも大きくなるという現実を教えています。また、日常生活において小さな諍(いさか)いから人間関係が複雑にもつれ、自分の居場所がうばわれているように感じるときは、激しい嵐に襲われるような、つらい現実の中を生きなくてはなりません。

 道綽は、このような現実をつくり出しながら生きる私達に、浄土の教えを根拠とする生き方があると語ります。浄土とは、あらゆる存在を平等に苦しみから超えさせたいと誓った阿弥陀仏の願いによって建てられた世界です。それは端的に言えば、誰一人見捨てられることのない世界といえます。そのような世界を根拠として生きるからこそ、人間がなす罪や悪がどれほど大きく、その中で生きる苦悩がいかに深くとも、その現実から逃避するのではなく、現実と向き合い、自らの生を全うしていく生き方が開かれるのではないでしょうか。道綽は、1300年以上の時を超えて、私たち人間を支える根拠となる教えが確かに存在することを伝えようとしているのです。

道綽(562~645)
中国の僧。親鸞の思想に影響を与えた七人の高僧のうちの一人。

「高僧和讃」(親鸞)

大谷大学HP「きょうのことば」2016年5月より
教え 2021 09

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 布施のもともとの意味は「与えること。ほどこし」です。ジャータカ(釈迦の前世の物語)には、釈迦がウサギとして説かれます。お話はこうです。飢えた旅人がいました。そこに、サルとキツネが登場し、旅人に食べ物を探してきて提供しました。しかしウサギには何も提供するものがありません。そこでウサギは焚き火に身を投じ、丸焼きになっていのちを旅人に提供したというお話です。「布施」には自分のできる範囲のものを提供するという意味もありますが、〈ほんとう〉は全身全霊を提供することを教えているのでしょう。
 サルとキツネの行動は私の想定内の行為ですが、ウサギの行動は私の想像の範囲をはるかに超えています。この話を自分に引き当てて考えてみると、この場面でウサギと同じ行動が取れる自信はまったくありません。しかし、〈ほんとう〉の「布施」とはこういうものだと教えているようです。

 ところで、私は昨夜、鰺の南蛮漬けを食べました。ひょっとすると、この鰺もウサギと同じように、全身全霊を私に提供されている姿かもしれません。もちろんウサギは自分から火に飛び込みましたが、鰺は人間の都合で殺されたので、まったく意味は違います。それに対して、私には懺悔以外にありません。このジャータカは、月にウサギが住んでいるという話のルーツだと言われています。

武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)

仏教語 2021 09

僧侶の法話

言の葉カード

 私たちは、老病死を超える智恵も能力も術も何も持たされないまま、老病死の真っただ中に放り出されてきました。そして、確かな出遇(あ)いを渇望しながらも、自らその出遇いを限りなく壊しつづけて生きています。そしてそこから、私たちの漠然としたつかみどころのない不安と空しさが起こってきているのです。
 私たちは、その不安と空しさを誤魔化し、そこから逃げ回ることにかかり果てているのですが、本当はその不安と空しさこそが大事なのでしょう。なぜならば、その不安と空しさの中から、はじめて「私の生き方は本当にこのままでいいのだろうか?」という問いが起こってくるからなのです。そして、その問いは私の上に起こってきたものに違いないのですが、私の問いとは言えない、むしろ私を破って表に出てきた、如来の呼びかけなのです。この問いこそが私たちに仏法(ぶっぽう)を聞かせ、仏道を歩ませてくれるのです。

おなじようなこと くりかえす 日日であるが この日日から
私はいろいろなことを 無尽蔵に学ぶ
(榎本栄一さん/仏教詩人)

黑萩 昌氏
真宗大谷派 法誓寺住職(北海道)

『花すみれ』2018年7月号(大谷婦人会)より
法話 2021 09

著名人の言葉

言の葉カード

 いろいろなことが人生にはあります。面白くないこともたくさんあるでしょう。そんな中でも、そこからどうやって立ち上がろうかとすることが大切だと思います。私の場合、ものを片づける、掃除をすることが割と多いようです。自分の家、自分の部屋、目の前にある物に気持ちを向けることでいつの間にかそれまで鬱々としていた気分がほぐれていきます。目の前のものに気持ちを向けて、言ってみれば「ものに従う」ことが肝要なので、そのものが何であるかにたいして重要ではないのです。片づける対象は何でも良いのです。

 ずっと昔に聞いた話なのですが、ナイチンゲールは「将来のことを考えていると憂欝になったので、そんなことはやめてマーマレードを作ることにした。オレンジを刻んだりしているうちに気分が明るくなっていくのには全くびっくりする」と言っていたそうです。将来についての不安とマーマレードを作ることでは人生においてより重要なのはどちらでしょう。たいていの人は、将来についてのことの方が重要だと考えるでしょう。
 でも、ちょっと待って。普段、疑ったことはなかったけれど本当にそうでしょうか。こんな風に疑ってみることから古来哲学や宗教は始まったのではないでしょうか。人生というものが続く限り、不安や悩みが解消することはないでしょう。それに対してマーマレード作りやものを片づけることが悩みを忘れさせ、気分を明るくしてくれることは疑いのない事実です。

 普段、私たちは意味のある行為や目的のある行為というものに囚われすぎる傾向があるのではないでしょうか。私たちにはまだまだ理解できないことが全宇宙の星の数ほどあります。新型コロナウイルスもその一つです。しかし、今の常識からすれば否定的な評価が与えられる事柄の中にも、人生にとって有意義なことがきっといくらでもありそうです。
 現代はまさしく「手すりなき時代」です。コロナ禍で心が萎えそうになる時もあると思いますが、このような時だからこそ身近なものや日々の作業に目を留め、従ってみるのも良いのではないかと思います。

フローレンス・ナイチンゲール
看護師(イギリス)

宮永 由佳子氏
真宗大谷派 廣際寺(富山県)
『光華』第67号(富山教区坊守会)より
著名人 2021 09