2020年皐月(5月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 お経について善導(ぜんどう)大師(※)は、「『経』というは経(けい)なり。経よく緯(い)を持ちて匹丈(ひつじょう)を成ずることを得て、その丈用あり」(『観経疏/かんぎょうしょ』)と表現されます。経は経糸(たていと)で、緯は緯糸(よこいと)という意味です。匹丈は布を表しています。経糸がしっかりはられて、緯糸を通すことで布が織り上げられます。つまり、経糸が緯糸を受け止めていくわけです。
 ですからお経は、あなたをずっと受け止めていく、人生を貫く経糸として表現されているのです。緯糸は、私たちの日々の体験や、それこそ点数が良かった悪かったと言っている一つひとつの出来事です。経糸がしっかりしていなければ、緯糸という一つひとつの体験は思い出の積み重ねにはなっても、結局最後にバラバラになってしまいます。
 それに対して、一つひとつの出来事をいただいていくために、経糸という形で受け止めてくださるものがある。そのことによって、一つの貫かれたものとして、人生に自分を本当に確かめていく方向が与えられます。それが、お経のお意(こころ)だと教えられているのです。
 そういう意味でお葬式は、私を大事に受けとめてくださった方の織り上げた人生の布を確認する場であると同時に、今度はその方の布を私が受け止めていただいていくことです。つまり、その方の人生から、改めて私自身の経糸を確かめ、そこに習っていくことが、浄土真宗のお葬式ではないかと思います。

善導(613~681)
中国の僧。親鸞の思想に影響を与えた七人の高僧のうちの一人。

『観経疏』(善導)

四衢 亮氏
真宗大谷派 不遠寺住職(岐阜県)
「南御堂」新聞2019年8月号
(難波別院発行)より
教え 2020 05

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 「大丈夫だよ、安心して」などはよく使う言葉ですね。これはもともと仏教語です。「大丈夫」とは「偉大な人・菩薩(ぼさつ)」等を意味します。しかし、「一寸先は闇」と言われる日常生活だからこそ、「これがあれば大丈夫」と言えるものが欲しいのです。親鸞聖人は、それを「信心を一心(いっしん)という、この一心を金剛心(こんごうしん)という」(『末燈鈔/まっとうしょう』)と述べています。ダイヤモンドのように堅い信心があれば、何がやってきても大丈夫だというのです。それを聞いて、金剛心とはどんな暴風にも絶える岩石のようなイメージを持ちました。ところが、金剛心を説く一方で「柔軟(にゅうなん)」も説くのです。
 親鸞聖人は「この光に遇(あ)う者は、三垢(さんく)消滅し、身意柔軟(しんいにゅうなん)なり」〈『教行信証/きょうぎょうしんしょう』(真仏土巻)〉と言います。この光とは阿弥陀(あみだ)如来の光明です。この光に遇う者は、「三垢消滅」ですから、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんい)・愚癡(ぐち)という三つの垢(あか ※)が消え失せ、「身意柔軟なり」と。身も心も柔らかく柔軟性が生まれるというのです。
 譬(たと)えれば、これは水の性質ではないでしょうか。水は柔らかく、器の形とひとつになります。ただし水という性質はひとつも変わることがありません。どんなものにも従っていけるのは、水という性質を変えない不変性の強さです。

※仏教には「三毒の煩悩」という言葉があり、人間がもつ「貪欲(むさぼり)・瞋恚(怒り)・愚癡(ねたみ、そねみ)」の心を表す。

武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)

仏教語 2020 05

僧侶の法話

言の葉カード

 私たちは、どのような生き方を子どもたちに伝えているでしょうか。あるおばあちゃんが、お孫さんに「おばあちゃんになって何か楽しいことある?」と聞かれて「何にもない。若いときは良かった」と言われたそうです。そうすると、お孫さんにとって年を重ねることは、つまらなくて駄目なことと思うでしょう。そこで、「あんたのお陰でおばあちゃんになれたし、有(あ)り難(がと)うな」と言えたら、そのお孫さんにとって年を重ねる意味は全然違ってくるはずです。
 また、私たちは自分の力で人生を充実させようとします。テレビを見ていても、百歳になっても泳げる人やマラソンに挑戦している人など、年をとっても元気な人を特集します。本当に罪なことをしていると思いませんか。なぜ、年をとっても元気でなくてはいけないのか。そうすると、病気になることは駄目だということになります。
 私は「病院とお寺、どちらが無くなったら困りますか」と尋ねたりしています。そうすると、「そんな分かりきったこと言うな」と、病院が無くなったら困るというのです。でも不思議なことに、私の田舎でも小さな集落ごとにお寺があって、病院はずっと離れたところです。つまり、病院がない中で人生が全うされてきたのです。その生き方の違いとは何かと考えた時、生きる上での「いのちのいただき方」だろうと思います。その時に「そんな分かりきったこと言うな」という、分かりきったいのちの在り方とはどういうものでしょうか。
 いのちが、私になるよりもずっと前から始まっていると気付けた時、能力の有無、性格の良い悪いを超えて、出会えるものがあります。そこから始まれば、年をとっても、どのようないのちを伝えていくかが自ずと見えてくるのです。

飯山 等氏
大谷中・高等学校校長

「南御堂」新聞2018年10月号
(難波別院発行)より
法話 2020 05

著名人の言葉

言の葉カード

 納棺の仕事をしているとき、「人は死んだらどうなるのか」と真剣に考えた時期がありました。そんな時にある先生(医者)の日記に出あったのです。その先生は若くして全身にガンが転移。その宣告をされた折に書かれた文章に「レントゲン室を出るとき私は決心しました。歩けるところまで歩いていこう」という一節がありました。そういうことだったんだと気づかされた思いがした。その先生の日記には「目に入ってくる人や景色が、手を合わせたいほど尊く輝いて見えました」と。人間の生と死とが限りなく近づくか、あるいは、生きていながら100%死を受け入れたとき、あらゆるものが差別なく輝いて見える世界があるのだ、と。
 私たちはそういう世界を見ることができません。「生」にしがみついて生きている。今の日本の社会は「生」の哲学で成り立っており、死はなるべく隠して、隠蔽(いんぺい)して、忘れようとしたり表に出さないように隠して生きている。そういう社会の中に生きている人には絶対に見えない世界。生と死が一如(いちにょ)になったときに初めて見えてくる世界があるんだなと思いました。

 また私は、ある時から納棺に行く際はその方のお顔を気にするようになりました。多くのお顔を見ているうちに、亡くなった方というのは、皆どんな死に方であっても亡くなってすぐのお顔はいい顔をしているのです。私は亡くなった人の顔を見るということがいかに大事かということをどうしても伝えたいと思っています。
 九州のあるお寺に法事で行った際、14歳のお孫さんの作文を目にしました。1年前におじいさんを亡くした時のことを綴った作文で、その最後にこう綴られていました。
  「最後にどうしても忘れられないことがあります。それはおじいちゃんの顔です。それはおじいちゃんのご遺体の笑顔です。とてもおおらかな笑顔でした。いつまでも僕を見守ってくださることを約束しておられるような笑顔でした。おじいちゃん、ありがとうございました」
 臨終の現場に居合わせたことによって、「死」というものを五感で認識するとても大切な経験をされたのでしょう。ぴんと張り詰めた悲しみ、薬品の臭いや線香の臭い…。そして、視覚的に死に顔を目にする。机の上や頭の中で考える「死」とは違う経験をしたことが、「おじいちゃんは僕に、本当の人のいのちの尊さを教えてくれた」という作文の言葉になったのだと思います。

青木 新門氏
作家・納棺師

首都圏大谷派 開教者会
報恩講法話より
著名人 2020 05