2020年水無月(6月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 「はかなし」というのは、思ったとおりにことは運ばないということです。もっと別のいい方をすれば、この世は自分の思ったとおりにはなりませんということなのです。
 何が思うようにならないかというと「このよの始中終(しちゅうじゅう)」だというのです。その「始」とは何でしょうか。それはこの世に生まれたということです。親を選んで生まれたのでないという、人生の始まり。それでは、死ぬ時はどうかというと、もう死に時だからといったって死に時は選べないのです。死にたい、死にたいといっても死ねないのです。死にたくないといっても寿命が尽きれば死なねばならないのです。だから、「始中終」というけれど、始めも終わりも思うようにはならない。生まれたことも死ぬことも意の如くならないのです。では「中」はどうなのか。
 「中」というのは、人生全部です。これが思うようになるかというと、いかがですか。思ったとおりになりましたか。私はなりませんでした。私も娘が二人おりまして、寺でございますから、娘になんとかよいご養子を迎えて、後をとってもらいたいと思ったのです。しかし二人とも、それぞれ自分で相手を見つけて嫁に行きました。「住職、よくお出しになったねえ」と言われました。お出しにならないけれども、お出になったのだから仕方がない。
 だから、子供を持つと何がわかるかというと、「世の中、あなたの考えているようなものではありませんよ」ということを子供が無言で教えてくれているのかもしれませんね。こちらへ来るのにタクシーに乗ろうか、バスで行こうかと考えているときぐらいだと、自由意志らしきものがはたらいているということが自分で分かるのですが、大事なことになったら、自由意志でものは動いていません。これが「このよの始中終」という事実なのです。まったく人生不如意(ふにょい/意のごとくならず)です。

『御文』(蓮如/れんにょ ※)

蓮如(1415~1499)
室町時代の浄土真宗の僧侶

近田 昭夫氏
真宗大谷派 顯真寺前住職(東京都)
『自分でなければやれない仕事』
(真宗大谷派東京教区発行)より
教え 2020 06

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 「流行」はファッション業界や医学界でよく使われます。「流行性感冒(かんぼう)」と言えば、インフルエンザのことで、知らず知らずに罹(かか)っていることがあります。しかし、この「流行」はもともと仏教語です。親鸞聖人は「流行は、十方微塵世界(じっぽうみじんせかい)にあまねくひろまりて、すすめ、行(ぎょう)ぜしめたまうなり」(『唯信鈔文意/ゆいしんしょうもんい』)と用いています。十方微塵世界とは、私たちが目にする世界すべてという意味ですから、この世に「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」が流行しない存在はないというご理解です。南無阿弥陀仏と言えば、私が称(とな)えるものと思っていますが、親鸞聖人は全世界に流行して、あらゆるものが念仏(ねんぶつ)させられるとご覧になっています。
 たとえばここに一匹のゴキブリがいるとします。ゴキブリがゴキブリになるまでのいのちの背景を考えてみましょう。ゴキブリの親があり、その親にもまた親があります。そうやっていのちの背景を見ていくと、この地球上にいのちが誕生したところまで遡(さかのぼ)れます。ゴキブリもゴキブリに生まれたくてゴキブリになったわけではありません。それは私の生まれ方と同じです。ゴキブリがお念仏しているということは、阿弥陀様にすべてをしてゴキブリとして誕生したということです。私も阿弥陀様にして誕生したのです。それが身体でする念仏です。私たちが口で称える前に、すでに南無阿弥陀仏は身体に「流行」していたのです。それに気づいたとき、念仏せずにいられない自分にさせられているのです。

武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)

仏教語 2020 06

僧侶の法話

言の葉カード

 梅雨の季節は、傘を手放すことができません。出先で傘を借りることもあるかと思います。あるお寺の掲示板に、「借りた傘 雨が止んだら 邪魔になる」とありました。自分の傘であれば、邪魔になれば捨てることもできます。しかし、借りた傘であれば、返さないといけませんから、雨が止んだ途端に荷物になって、邪魔になるのです。私たちは、人さまからお借りした傘であっても、自分の役に立たなくなれば邪魔になるというような、そういう根性を持っているのです。
 この言葉にはタイトルがあって、「忘恩(ぼうおん)」とつけられていました。恩を忘れるということです。私たちは普段、忘恩の生活をしているのではないでしょうか。恩を忘れて、あるいは恩を邪魔だと感じている、そういう私たちのあり方が表現されていると思います。
 京都に佛光寺(ぶっこうじ)のご本山がありますが、そこに「八行標語」という書籍にもなった有名な掲示板があります。こんな言葉がありました。「あいにくの雨 めぐみの雨 自我の思いが ひとつの雨を ふたつに分ける」。誰にとっても平等に降る雨を、あいにくの雨にするか恵みの雨にするか。それを決めているのは自我の思い、すなわち自分の都合です。こちら側の都合で一つの雨を二つに分ける、分別しているわけです。自分の思いを中心とする限りは、「忘恩」していくような私たちです。

伊東 恵深氏
真宗大谷派 西弘寺住職(三重県)

「南御堂」新聞2019年7月号
(難波別院発行)より
法話 2020 06

著名人の言葉

言の葉カード

 僕が幼いころに住んでいた場所には、死亡事故が多発する交差点がすぐ近くにあり、少し先には飛び降り自殺の名所だった橋がありました。そこで身の回りには「死」が溢れていて、その経験を通じて病死も事故死も自殺も同じに見えました。
 (以前本に書いたことですが、)自殺を考える人は、社会の中で生きづらさを誰よりも早く感じる、いわば“炭鉱のカナリア”(※)のような存在だと思うのです。だから、誰かが「死にたい」と思う社会は、誰もが生きづらい社会である。そういう視点で、誰もが思い詰められることがない社会に少しでも近づくために、取材を続けたいと思います。

炭鉱のカナリア
毒物に敏感なカナリアが炭鉱での有毒ガス検知に用いられたことから転じて、危機をいち早く察知して周囲に知らせる存在をいう。

渋井 哲也氏
ジャーナリスト

月刊「同朋」2018年4月号
(東本願寺出版)より
著名人 2020 06