2020年卯月(4月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 蓮如(れんにょ ※)の教えにふれた人が次のように言っています。
  若いときにこそ、仏法(ぶっぽう)は嗜(たしな)みなさい。なぜなら、年をとれば、足が弱って教えを聞く場所に行くこともできなくなり、大事な教えを聞いていても眠たくなってしまうからです。
 この人は、蓮如の教えにふれて、仏法を聞くのは、さまざまな問題に出あう人生において本当に大事なことを聞くためであることに気づいたのでしょう。だから、老いた精神で仏法を求めることはできない、人生をどのように生きようかと悩む若々しい精神によってこそ仏法は聞くことができると言うのです。
 蓮如の弟子のひとりは、「九十歳まで教えを聞いてきたが、これでわかったということもなかったし、厭(あ)きたこともない」と 語ったそうです。ここに、いつも新しい問いをもって生きていく若々しい精神があらわれています。本当に聞くべきことを求めていない人こそ精神の老いたものではないでしょうか。仏教を求めてきたのは、いつも固定したものを打ち破る勇気をもち、問題意識に満ちた若い魂でした。仏法を求める人が「童子(どうじ)」として呼ばれるのは、このような若々しい精神をあらわしているのです。
 では「仏法はたしなめ」とはどういう意味でしょうか。「たしなむ」というと、「多少、お酒をたしなみます」というような意味で使われることが多いように思います。もし、そういう意味で仏法をたしなむのであれば、「若くて元気なときに、仏法を学ぶことを心がけなさい」というほどの意味でしょう。
 しかし蓮如は、仏法において「たしなむ」ということは「仏恩(ぶっとん)を嗜む」ということであって、世間でいう「たしなむ」ということではないといわれています。「たしなむ」とは、自分であれこれと「心がける」ことではなく、仏法の教えを聞くことによって、人生において本当に大事なことを忘れて生きていることを教えられ、そのようなわが身を深くかえりみて、人生において本当に大事なことを思いだして生きることであるというのです。
 仏法は、ただ一度の繰り返すことのない、誰とも代わることのできない人生をどのように生きるのかという問いから始まります。だから生きていくことに問いをもつ若々しい精神があるときにこそ、仏法を心にかけて生きてほしいと、蓮如は言うのです。

蓮如(1415~1499)
室町時代の浄土真宗の僧侶

『蓮如上人御一代記聞書』(蓮如)

大谷大学HP「きょうのことば」1998年4月より
教え 2020 04

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 臨終は、「いのちの終わる時」という意味です。ひとは、ひとと生まれたからには、必ず一度は臨終を迎えます。自分もいつか臨終を迎えるだろうと思っていました。ところが親鸞聖人は「臨終」を「いのちおわらんときまで」(『一念多念文意/いちねんたねんもんい』)というのです。それは「いのちおわるとき」でなく、「いのちおわらんとき」です。つまり、「いのちが終わる時点」ではなく、「いのちが終わろうとする時」という意味です。つまりやがて臨終という時が来るのではなく、〈いま〉この時がいのち終わろうとする時なのだという受け止めです。
 私たちは、臨終がやってくるのは、何年後、あるいは何十年後だと決めてかかっています。しかし、いのちの事実としては、明日には終わっているいのちを生きているのです。明日には生きていないかもしれない〈いま〉を生きているのです。死がやってくる可能性は、誰においても次の一瞬にあるのですから。

武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)

仏教語 2020 04

僧侶の法話

言の葉カード

 教育改革では、3つの柱が立てられています。「個別の知識・技能」という学習面と、「思考力・判断力・表現力等」というものを大切にすること、そして「学びに向かう力、人間性等」です。その三つ目の柱は、「どのように社会・世界と関わり、よりよい人生を送るのか」と言われています。学習面や、応用などの力は、今までも言われていて分かりやすいものですが、三つ目に関しては正解があるでしょうか。
 人によって、「よりよい」というのは違ったりします。人との関わりを大切に生きる人、仕事を大切にしたい人、趣味を充実させた人生を送りたい人など、様々です。どれが正解とは言えません。これを子どもたちに伝えるわけですから、先生もこのことを考えなくてはなりません。何も正解を出せというのではなく、これを大切に思って生きることを、子どもたちに見せましょうということです。
 子どもは大人を見て育ちますから、このことを考える視点を大人から学んでいきます。この柱は、子どもに対するメッセージであると同時に、実は大人へのメッセージでもあるわけです。
 親鸞聖人の『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』に「安楽集」(道綽/どうしゃく ※)の言葉を引いて、「前(さき)に生まれん者は後(のち)を導き、後に生まれん者は前を訪(とぶら)え、連続無窮(むぐう)にして、願わくは休止(くし)せざらしめんと欲す。無辺の生死海(しょうじかい)を尽くさんがためのゆえなり」とあります。大人と子どもの関係で言えば、前に生まれん者とは大人で、後に生まれん者は子どもです。大人は子どもを導き、子どもは大人を訪ねることが、ずっと繋がり続けて止まらないことを願われているのです。無辺の生死海は、私たちの現実世界です。尽くすというのは、そこを生ききっていくことです。
 このことからも、私たち大人が生き方として子どもに示していかなくてはならないことがあるのです。生きることの課題と真剣に向き合ってこそ導きとなり、また子どもたちも訪ねていくようになる。あるいは一緒に考えていく課題の共有ともなりうるのではないでしょうか。子どもたちの課題を通して大人たちが一緒に考えていこうというのが、今の教育改革の一番大切なポイントであると思います。

道綽(562〜645)
中国の僧。親鸞の思想に影響を与えた七人の高僧のうちの一人。

冨岡 量秀氏
大谷大学教授

「南御堂」新聞2019年5月号
(難波別院発行)より
法話 2020 04

著名人の言葉

言の葉カード

 人に優しくありたい。誰もが心の中ではそう思っているはず。にもかかわらず、何かにイライラしていると、誰かに冷たくあたったり自分自身に歯がゆさを感じたり…。自他に対する感情のコントロールがきかなくなってしまうこともあるでしょう。「優しくありたい」と同時に「優しくされたい」が私たちの本音です。
 「あの人は私のことを何もわかってない!」と、ついつい物事の問題を相手に押し付けたりしてしまうのが私たちですね。自分に対する相手からの優しさや愛情が感じられなければ、不安な気持ちから人間関係さえこじれてしまいます。でも本当は、誰もいがみ合いたくないはずです。
 「わかってほしい」と私が思うように、きっと隣の人も同じことを思っています。「誰かの為に生きてこそ」という言葉は、けっして自分のことを後回しにするという意味ではないはずです。お互いが優しく生き合えるにはどうしたらよいのか。私たち一人ひとりの心に投げかける、そんなメッセージのように感じます。

アインシュタイン
理論物理学者(ドイツ)

著名人 2020 04