現代日本語の「愛」という言葉には、自分の好きなものをかわいがることや、「人間愛」「地球愛」などのような抽象的な意味、「愛欲」や「愛執」などのように人間の強い欲望を表わす場合など、様々な意味があります。では経典(お経)には「愛」はどのように説かれているのでしょうか。
この言葉は、『涅槃経(ねはんぎょう)』の中で仏の法愛(ほうあい)を説く一文です。仏教用語で「愛」と言う場合は、先に述べた「愛欲」、「愛執」といった意味です。つまり様々な物事に対する強い欲望を表わしています。従って『涅槃経』は、仏にも強い願い・欲求があると説いている事になります。これは一体どのような意味なのでしょうか。
私たちの欲望は、実現すれば更にその上を望むという具合に決して終わる事がありません。手に入れても手に入れても別のものを欲しがるというのが私たちの欲望の中身なのです。常に飢渇(きかつ)に悩むものを仏教語で「餓鬼(がき)」と言いますが、まさしく常に不足感に悩まされ続ける私たちを表わす言葉と言うことができます。それゆえ「餓鬼愛」とは、常に欲望に悩まされる私たちを表わすものということになります。
私たちの欲望に際限がないのは一体なぜでしょうか。それは、真実に手に入れるべきものが何であるかを私たち自身がよくわかっていないからです。そのために常に他人と比較して不足を感じるのです。それ故、私たちの欲望の解決は、新たなものを手に入れることではなくて、「足るを知る」ことにあると言えます。
それ故、『涅槃経』は冒頭の文章の後に「餓鬼愛を離れ、衆生(しゅじょう ※)を憐憫(れんみん)するがゆえに法愛あり」と述べて、仏には人々を救済するという強い欲求があると言うのです。この欲求は、私たちの「餓鬼愛」とは異なる性質のものなのでそれを「法愛」と言っています。つまり、手に入れても手に入れても満足できない欲望に多くの人々が悩まされている現実に対して、その真の解決を示して人間に本当の満足を教えたいという欲求が仏の大悲のはたらきであり、それを「法愛」と言うのです。
- 衆生
- 生きとし生けるもの。
『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』
大谷大学HP「きょうのことば」2002年12月より
教え 2019 09
「お彼岸」の「彼」は「他の」、「向こう側の」、「彼(か)の」を意味します。したがって彼岸とは、私たちの迷いの世界を超えた向こう側、絶対的に他なる、彼(か)の仏さまの世界を表現する言葉なのです。
仏教では、彼岸と此岸(しがん)を隔てる「川」は私たちを縛っている無明、煩悩(ぼんのう)にたとえられます。無明・煩悩という川が自覚されない限り、彼岸も此岸もあるのかないのか区別もたたず曖昧なままです。
一方、無明・煩悩に目覚めますと、仏さまの世界(彼岸)と私たちの迷いの世界(此岸)とが明瞭に区別され、その意義が知らされてまいります。つまり、彼岸の世界が明瞭に知らされることは、同時に私たちの迷い深きこの世、此岸の世界が照らされ、はっきりと知らされてくることでもあります。「照らす世界」と「照らされる世界」です。
そこに、私たちには「一つの世界」のみに生きることから「二つの世界」に生きることが始まります。自分の思いがすべてであった生き方から、その生き方が照らされ問われる世界に生きることが願われてくるのです。生きらるべき世界は平板(へいばん)な一世界ではなく、呼びかけ呼び覚まされる立体的な二世界であります。
「お彼岸」は、み仏(ほとけ)の世界の確かさを仰ぎつつ(彼岸)、わが身の罪業(ざいごう)の深さが知らされていく(此岸)、まことにてらいのない穏やかな温もりを私たちに開いてくださる仏事であります。
大江 憲成氏
九州大谷短期大学名誉学長
『暮らしのなかの仏教語』(東本願寺出版)より
仏教語 2019 09
「わが子に迷惑を掛けたくない」というのは非常に美しい言葉に聞こえますが、その思いの根底には、「私は今まで誰の世話にもならなかった」、「自分の力で頑張ってきたんだ」という、人に頼ることが悪いことという考え方があるからでしょう。そうすると、身の上に起こってくることの事実を隠そうとしたり、善悪の判断のみで物事を考えてしまったり、プライドが高く認めようとしなかったり…。
かくいう私にも、年相応の衰え方をした89歳の母親がおります。病院に行くときは、杖をついたりマスクをするようこちら側が勧めても、聞く耳を持ちません。マスクをすると病人のように思われ、杖を使うと老人のように思われると言うのです。プライドが許さないわけですね。そして人に迷惑を掛けたくない。それはあくまでも善悪の世界の中で考えているものですから、悪いことだと思っているのです。
この言葉は浅田正作さん(※)の詩集の一節です。年を取って面倒なものになったのではなく、もともと面倒なものを抱えた人間なんだということでしょう。そして、面倒なものが年を取ったということを、年を重ねたことで教えられてくると。
仏法(ぶっぽう)を聞き続けて本当の教えに出遇(あ)ったと思いながらも、決してその教えに出遇っていないのかもしれません。むしろ、自分の身に起こる事実、自我を知らされてくることを通して教えに遇っていく。教えに出遇って完成されていくという話ではなく、「ますます教えを聞いていないことが明らかになってくる」、「頷けない自分がここにいる」ということが教えられてくるのです。
問題だらけの生活の場こそが、私の姿が知らされてくる場所だったというふうに言わざるを得ないような、そういう突き上げてくるものと言った方がいいでしょう。そういうものが私たちに闇としてあり、闇の中から確かな教えが聞かされてくるというふうにいただきたいものです。
- 浅田正作
- 石川県松任出身。『念仏詩集・骨道を行く』という詩集の一節。
竹部 俊惠氏
真宗大谷派 妙蓮寺住職(富山県)
真宗会館「日曜礼拝」より
法話 2019 09
小学校の頃、大人たちから将来の夢はと尋ねられると、生意気にも科学者になってノーベル賞をもらいたいと答えていた。もっとも、父親が日本初のノーベル賞受賞者湯川秀樹さんのことを褒めそやすのに感化されて、ノーベル賞がなにかもわからずにそう答えていたというのが実情である。なんともたわいない話である。そして、あの夢は実現しなかった。
大人たちわれわれは、こどもたちに「夢をもて」と言うけれど、その後のことを言わない。人生においてほとんどの夢は実現することがない。ほんの一握りの人が幸運にもその夢に辿り着くことができる。ということは、夢が実現しなくてもよいのである。夢が実現しようとしなかろうと、その人の人生はそれ自体で充分意味があるのだから。夢に破れたら、それで自分が無価値になるなどということはない。
大切なのは夢に破れた後である。あらたに別の夢を探すというのもいいだろう。しかし、才能にも幸運にも恵まれないわれわれにとって必要とされるのは、どこかで夢に別れを告げるということである。ノーベル賞受賞の夢が破れたとき、その夢によって自分が何を目指していたのかを反省する。名誉が欲しかったのか、賞金目当てであったのか。もしそれだけのことなら、そんな夢はさっさと捨てるがよい。もし、その夢のなかに他の多くの人々、いやすべての人々にとっても価値あるものが見いだされるなら、その方向に着実に歩んでいけばよい。そのとき、それはすでに夢ではなく、いかにささやかでもひとつの理想となる。
池上 哲司氏
大谷大学真宗総合研究所 東京分室長
「サンガ」№137『real time』より
著名人 2019 09