仏教の教えについて

言の葉カード

 認知症外来の方で、「なんとなく寂しい」とおっしゃった方がおられました。仕事も退職し、子どもも独立。友達とも足が悪くて会えなくなり、今までしていた趣味もできなくなった。今の自分というのは何が喜びなのだろうか、という疑問です。今まで意味があると思ってきたものに信頼を置けなくなってしまう。その信頼をどう回復していくのかということは、どんな人にとっても問題になってくるはずです。それが信仰ということがもっている問題です。
 私たち人間は「いのち」の価値をどこに見ているか。一言でいえば、能力によって見ている。自分の価値判断で生きることに意味が有る、無いと決める。そうではない「いのちの見方」があるのではないかと仏教はいうわけです。それを「正見(しょうけん)」といいます。老病死によって崩れないいのちを求めて出家した、ということが仏教の物語で語られます。「老病死を出家をした」という物語です。その「」というのは、何を見たかということが問題です。単に、「いのちは儚(はかな)い」ということだけではない。人間を根本的に支えているものが崩れていく、自分でつかんでいた生きる意味が崩れていく。そういうことを問題にしているのです。そして、出家という言葉は「家を出る」と書きますが、元の言葉は「前に進む」という意味です。生きる意味を見失っても前に進む道があるといって出家したのがお釈迦さまです。こういう最初の問いに返らないといけないということを、ご縁のある患者さんを通して、改めて自分が問い返されます。
 そしてもう一方では、「苦悩を苦悩の外側から眺めている」ということが問題になってきます。「あなたは仏教の教えにうなずいているかもしれないけど、私はうなずけない」、「そんなあなたには私の苦悩は分からない」と言われることもあります。ここが大乗仏教(※)の一つの課題ではないかと思います。自分が救われたということで終わらないような課題がある。共に苦悩できる場所というのはどこにあるのだろうかということが、他者と生きる中では常に問題になってくるのです。

大乗仏教
日本に伝来した仏教思想は主に「大乗」という思想であり、その教えは「大いなる乗り物」と例えられるように、救われる衆生を限定しない菩薩の仏道のこと。

『ブッダの教え』

岸上 仁氏
脳神経内科医/真宗大谷派 受念寺副住職(大阪府)
公開講演会「一人の声に寄り添う」より
仏教語 2019 11