2019年霜月(11月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 認知症外来の方で、「なんとなく寂しい」とおっしゃった方がおられました。仕事も退職し、子どもも独立。友達とも足が悪くて会えなくなり、今までしていた趣味もできなくなった。今の自分というのは何が喜びなのだろうか、という疑問です。今まで意味があると思ってきたものに信頼を置けなくなってしまう。その信頼をどう回復していくのかということは、どんな人にとっても問題になってくるはずです。それが信仰ということがもっている問題です。
 私たち人間は「いのち」の価値をどこに見ているか。一言でいえば、能力によって見ている。自分の価値判断で生きることに意味が有る、無いと決める。そうではない「いのちの見方」があるのではないかと仏教はいうわけです。それを「正見(しょうけん)」といいます。老病死によって崩れないいのちを求めて出家した、ということが仏教の物語で語られます。「老病死を出家をした」という物語です。その「」というのは、何を見たかということが問題です。単に、「いのちは儚(はかな)い」ということだけではない。人間を根本的に支えているものが崩れていく、自分でつかんでいた生きる意味が崩れていく。そういうことを問題にしているのです。そして、出家という言葉は「家を出る」と書きますが、元の言葉は「前に進む」という意味です。生きる意味を見失っても前に進む道があるといって出家したのがお釈迦さまです。こういう最初の問いに返らないといけないということを、ご縁のある患者さんを通して、改めて自分が問い返されます。
 そしてもう一方では、「苦悩を苦悩の外側から眺めている」ということが問題になってきます。「あなたは仏教の教えにうなずいているかもしれないけど、私はうなずけない」、「そんなあなたには私の苦悩は分からない」と言われることもあります。ここが大乗仏教(※)の一つの課題ではないかと思います。自分が救われたということで終わらないような課題がある。共に苦悩できる場所というのはどこにあるのだろうかということが、他者と生きる中では常に問題になってくるのです。

大乗仏教
日本に伝来した仏教思想は主に「大乗」という思想であり、その教えは「大いなる乗り物」と例えられるように、救われる衆生を限定しない菩薩の仏道のこと。

『ブッダの教え』

岸上 仁氏
脳神経内科医/真宗大谷派 受念寺副住職(大阪府)
公開講演会「一人の声に寄り添う」より
仏教語 2019 11

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 「魔が差した」。この言葉ほど怖いものはありません。手に負えないからです。どんなに人格者であっても、どういうわけかしてはならないことをしでかしてしまうのです。あの人に限ってそんなはずはない…などの言葉もかき消されてしまいます。
 さて、この魔(māra/マーラ)は、殺す、破壊する、邪魔する、障碍(しょうがい)する、誘惑するなどが原意です。人間が目的に向かおうとする歩みを邪魔し、さまたげ、本来人間として歩むべき道を迷わせ、自分自身を破壊しダメにしてしまうものです。
 ところで、釈尊(しゃくそん/お釈迦さま)が菩提樹(ぼだいじゅ)の下で初めて開かれたさとりを「降魔成道(ごうまじょうどう)」と言います。魔を降伏させた時(降魔)、そこにそのまま歩むべき道が成立したこと(成道)を指し示している教えです。
 私たちは苦悩の原因を自分の外に見つけ、そしてその原因をなくしてしまえば苦悩はなくなると考えます。いわば、魔を外に見て魔を破壊させようとするのです。ところが釈尊は、わが身を縛っている苦悩の原因は、ほかならぬ自分自身にあることに目覚められた。つまり魔の正体を発見(正覚)されたのです。すると魔は手出しができず、力を失い退散します。魔を殺すのではなくその正体を見破って力を失わせる。これが釈尊の目覚めであったのです。
 では魔の正体とは何であり、何が歩みをさまたげているのでしょうか。それはわが身の内に気づかずにはたらいている無明(むみょう)・煩悩(ぼんのう)にほかなりません。ところが、魔が自分の外にあると考える限り、実体化され絶滅されるべき対象となるのです。
 人類の歴史は、無明・煩悩という魔の正体に気づかぬまま、善神にこと寄せて魔を実体化し(※)、撲滅(ぼくめつ)しようとし続けてきた歴史でもあります。人類の業縁(ごうえん)の根深さから目をそらさずに世間を問い直すことが願われているように思われます。

※物事の善悪を切り離して、良事のみ自己に受け入れ、悪事を他人事として排除する考え方。

大江 憲成氏
九州大谷短期大学名誉学長

『暮らしのなかの仏教語』(東本願寺出版)より
仏教語 2019 11

僧侶の法話

言の葉カード

 私の祖父は「仏さまの教えに出遇(あ)った人は、毎日の生活が報恩講(ほうおんこう ※)なのです」と先生から教えられたそうです。報恩講の“恩”という字は『ツルの恩返し』と同じ字を書きますが、毎日が恩返しならば大変ですね。はたして報恩講とは、何かの恩返しをすることなのでしょうか。
 学生時代に「君たちは育ててもらった恩を、家族に返せましたか」と質問されたことがあります。しかし、クラス全体で数人しか手をあげられませんでした。その時「手をあげた人は、恩の深さを本当にわかっていますか。一生かかっても返しきれるものではありませんよ」と先生は言いました。手をあげた人が間違っているということではなく、返したつもりでも、いただいた恩は決して返しきれない深いものだと、先生は教えてくれたのです。その大切さに本当の意味で気づいた時、初めて「返しきれない」という気持ちがおこってくるのだと気づかされました。
 子どもの頃「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、南無阿弥陀仏」とお参りしているおばあさんに「手を合わせて何をお願いしているの」とたずねると、「うらはお礼をとげにきただけや」とこたえてくれました。これは私の地元の方言で「私はありがとうと伝えに来ただけですよ」という意味です。そこに“〇〇してくれたからありがとう”とは違う、もっと深いありがとうを感じました。ご恩を返しきれない、申し訳ないという気持ちと、そのような自分にも仏さまの教えが届いたという感動が、おばあさんの「南無阿弥陀仏」という声になって現れたのだと思います。報恩とは恩を返すことではなく、このように感動して心からありがとうという気持ちが湧き上がってくることです。そして、その気持ちを忘れないように大切にすることが報恩講なのです。

報恩講
浄土真宗で大切にしている仏教行事。親鸞の祥月命日にあたる法要。

松扉 覚氏
真宗大谷派 本泉寺(石川県)

真宗大谷派青少幼年センター
子ども会情報紙『ひとりから』第6号より
法話 2019 11

著名人の言葉

言の葉カード

 本当の「幸福」とは何でしょうか。思い描くことはそれぞれ違うでしょうし、違って当然かもしれません。しかし、もしかすると自分の幸せのために誰かが不幸せになっているかも…。
 江戸時代から明治時代にかけて活躍された近江商人(おうみしょうにん ※)の経営哲学に、「三方よし」という考え方があります。「売り手よし、買い手よし、世間よし」。つまり、商売事をするにあたっては、自分だけよければよいという考え方ではなく、買い手である相手、そして社会が豊かになること。自らの利益のみを追及するのではなく、社会全体が幸せになっていくことを忘れてはいけませんよ、という思いが込められているのでしょう。
 このことは社会、経済だけの話ではなく、私たち一人ひとりに通じますね。
 よく聞くお話に「これを手に入れたらあれも手に入れたくなった」ということがあります。つまり、求め続ければ求め続けるほど、欲望の炎は消えないのでしょう。それは、他人と自分の幸福を比べる心があるから。是が非でもという気持ちではなく、お互いがし合えるようになるにはどうしたらいいのかと考えていくことに、どうやらこの言葉に対するヒントがありそうです。

近江商人
現在の滋賀県で行商していた商人の総称

宮沢 賢治
詩人(日本)

著名人 2019 11