今から二千五百年ほど昔、インドで悟りを開いたブッダ(お釈迦さま)は、ガンジス川の中流域を旅して、人々に苦しみから解放される道を説きました。「激流」という言葉で表されるのは、具体的には雨季に増水したガンジスの危険な流れですが、ここでは人間を溺れさせる苦しみのもとである煩悩(ぼんのう)の喩(たと)えになっています。「激流を渡る」ということは、苦しみに飲み込まれることなく、向こう岸にたどりつくことです。どうしたら溺れずに渡り切れるのかというと、それは「信仰による」とブッダは言います。ここで「信仰」というのは、落ち着いて真実の言葉に耳を傾け、信じることです。
「溺れる者は藁(わら)をも掴(つか)む」ということわざがありますが、ブッダの言う「信仰」は、「藁を掴む」こととはまったく違います。荒波にもまれ溺れそうになると、人は動揺して近くにある何にでもしがみつきたくなりますが、そういうときこそ強ばった体の力を抜き、信頼できる真実の言葉に耳を澄ませて導かれ、柔軟な自然体で抜手(ぬきて)を切っていくべきなのです。
ブッダの言葉は、苦しんでいるすべての人が信頼することのできる確かな言葉です。それは、二千五百年もの長きにわたり、多くの人々の生きるより所となってきました。苦しいとき、悲しいとき、寂しいとき、腹が立つとき、迷うとき、そういうときには立ち止まって肩の力を抜き、素直にブッダの言葉に耳を傾けてみましょう。聞くことを通して不安や疑いが晴れ、再び歩みを続ける希望が湧いてきます。暗い雲の絶え間から陽が差し、まわりの世界が明るくなって、共に旅する先輩や友達の姿も近くに見えてくることでしょう。このように仏教は、苦しんでいる人に力を与えてくれる「希望の宗教」なのです。
『スッタニパータ』(原始仏典)
大谷大学HP「きょうのことば」2010年4月より
教え 2019 07
「億劫」と書いて「おっくう」と読みます。ただしくは「おくこう」でしょう。それが俗語化したようです。もともとは仏教語で、「百千万億劫(おくこう)のこと。無限に長い時間。永遠」という意味です。それが現代では、「気が進まず面倒なこと。面倒に感じられるさま」に使われています。まったく「おっくう」な話です。現代は「忙しさの時代」です。小学生でも、お互いに遊ぶときにはアポイントメント(予約)をとるそうです。アポなしでは、遊ぶこともできません。まして大人社会では、予定の入っていない日がないくらい忙しい。日曜日すら予定が入っています。まったく生きること全体がオックウな時代になりました。「洗濯もしなきゃ、銀行へもいかなきゃ、買い物をして、次に郵便局にいって…」と考えるとオックウだなぁと思います。たくさんの仕事を前にして人間はオックウだと感じます。
しかし、よく考えてみると人間にできることは、目の前にあるたったひとつのことです。手を動かす、足を運ぶ、耳で聞く、眼で見る。オックウと感じているのは「思い」です。「思い」は同時にいろいろなことを考えます。あれもこれもと考えます。しかし、実際にしている行為は目の前のたったひとつのこと以外にはないのです。私は「思いは抽象・体は具象」といっています。
何が人間をオックウにさせるのかといえば、やはり「オックウという思い」なのです。たったひとつの行為の連続以外に生きるということはありません。この「思い」と「行為」の峻別(しゅんべつ)こそが、生の新鮮さをたもつ秘訣だと思います。
武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
月刊『同朋』2002年10月号より
仏教語 2019 07
いつお参りしても、阿弥陀(あみだ)さまって、ずーっと立ってるんだよね。なんでだろ? 座って休む暇がないほど、私たちのことが心配なんだって。阿弥陀さまは一日も休まず、みんなが寝てる時も、夜も昼も立ちっぱなしで私のことを心配してくれてる。「阿弥陀さま、そんなに心配しないで、たまには座って休んでてください」ってお願いしても、人間のお願いなんか、ちっとも聞いてくれないで、阿弥陀さまは黙って、ずーっと立っておられるんだよね。まったくお節介だよね。
お日さまの光っていうのもお節介だよね。どこまでも私の影を教えてくれるんだもん。「もういい!!」って言っても、自分から自分の影は絶対離れないもんね。「あなたはそこにいる!」って、ずーっと教え続けてくれるんだよね。お日さまの光って、阿弥陀さまに似てる。阿弥陀さまもお日さまの光みたいに、私たちを照らしながら、どんなことがあっても「あなたはそこにいるんだよ」って私に教えてくれてるんだよね。
悲しかったり、淋しかったりしたら、お日さまの前に立ってみるといいと思う。お日さまに照らされてみると、必ず自分の影を確かめられる。「あぁ、私はここにいたな」ってね。
阿弥陀さまは、いつでもどこでも「みんなどこにいますか? 何してますか? 大丈夫ですか?」って私のことを心配してくれてるんだ。そんな阿弥陀さまの問いかけに「私はここにいますよ」ってこたえる言葉が、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」って言葉なんだね。
自分が一人ぼっちに思えた時は、お日さまの前に立って、この「南無阿弥陀仏」の話を思い出して欲しい。どんなことがあっても、自分の足元を離れない自分の影を確かめたら、「あぁ、私はここに生きてるなぁ」って、「南無阿弥陀仏」とそっと声に出してみて。阿弥陀さまは、必ず私を離れずそこにいるから…。
松田 亜世氏
真宗大谷派 前青少幼年センター主幹
真宗大谷派青少幼年センター
子ども会情報紙『ひとりから』第20号より
法話 2019 07
芸能の仕事をしていると、自分一人の力や才能で女優をやってこられたとはとても思えないんですね。きれいな人は山ほどいるし、お芝居が上手な人もたくさんいる中で、何とかやってこられたのは、私だけの力じゃない。これまでにたくさんの方と出会って、ご縁をいただいて、今の自分があるなと思うことがすごく多いです。おそらく、そうやってご縁に支えられているのは私だけじゃなく、誰にでもあることでしょうね。ただ、そのことに気づくか気づかないか、という違いはちょっとあるのかもしれません。
人間は目に見えるものと、目に見えないものの両方に支えられていると思うんです。そして、目に見えないものについては、自分一人の力ではどうしようもない。ですから昔は、お寺に行ったり、檀家さんの集まりでそういうことを語り合ったりすることがあったと思うんです。ところが今はそういう場がなくなってしまったから、顔を見たことがないネットの住民に相談するみたいなふうに変わってきたんじゃないかと。
生きていると、どんなに頑張っても人に評価されなかったり、すぐには結果につながらないことがあるでしょう。そんな時にも諦めずに努力を続けられる人は、何か目に見えない存在が自分を見てくれているということを信じる力があるのだと思うんです。
室井 滋 氏
女優・エッセイスト
月刊『同朋』2018年1月号より
著名人 2019 07
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