2019年如月(2月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 わたし宛に届けられた贈りものは、それがなんであれ、わたしが生きていることを祝福してくれます。その贈り主は、わたしが今ここにいることを必要としていると、わたし宛の贈りもので伝えてくれているからです。あなた宛の贈りものには必ず「あなたが生きている今日は素晴らしい」と言うメッセージが添えてあるのです。
 しかし、その贈りものは、通販で購入した商品のようなお望みの品物ではありません。カタログから自分で選んだものが宅急便で届くのではありません。贈り主が選んで、そしてわたしを宛て先として贈ってくださるものなのです。
 わたしたちのいのちもそのような贈りものです。その大きさや価値を計って他人の命と比べたりすることのできないいのちは、わたしたちそれぞれに贈られたかけがえのない贈りものです。親鸞聖人はそのいのちを「無量寿(むりょうじゅ)」という漢語で表現しました。お釈迦さまが生きておられた頃のインドの言葉で言えば「アミダ」。このいのちの贈り主を「アミダブツ」。そして、この贈りものをありがたくいただきますという言葉が「ナムアミダブツ」なのです。
 親鸞聖人に「弥陀(みだ)の五劫(ごこう ※)思惟(しゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」(『歎異抄 たんにしょう』)というお言葉があります。「アミダさまが五劫という気が遠くなるような長い間考えて選んでくださった願いは、よくよく考えてみれば、この親鸞一人に宛てられた贈りものだった」ということでしょう。親鸞聖人はアミダさまから、「本願(ほんがん ※)」というご自分宛の贈りものを受け取ったのです。

五劫
「劫」は時の単位の一つ。計り知れないほど長い時間という意味。
本願
全ての生きとし生けるものを救いたいと発された阿弥陀仏の願い

『歎異抄(たんにしょう)』唯円

門脇 健氏
大谷大学教授
「サンガ」№136より
教え 2019 02

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 人間の抱く「悲願」は、どうしても実現しようと心から念じている「悲壮な願い」を意味します。人間の思いに根ざした願いなのです。したがって、この人間の悲願は成就すると勝者が誕生する一方、同時に必ず敗者が生み出され、そこに人の世の不幸が立ち現れるのです。この矛盾をいかに受けとめていけばいいのでしょうか。いずれかが善であり、いずれかが悪であると簡単に決め込むことはできません。ただ、この矛盾を深い悲しみとして抱きとめてくださる世界があるのです。如来の悲願です。
 「悲願」とはもともと仏教語なのです。必ず「如来の悲願」、「菩薩(ぼさつ)の悲願」として表現され、私たちの日常の「悲願」とは区別されます。悲願の「悲」は如来の悲しみであり、引き裂かれた心、どうにもならない現実への悲哀です。私たちが自分の目的のために是が非でも達成しようとする悲哀な心とは質を異にします。如来はどのような者であれ私たちの姿をじっと見ていてくださり、私たちの出口なき悲惨な姿に御身が引き裂かれ、私たちが救われなかったならば如来ご自身も如来として生きていけないと悲しまれる心です。
 如来ご自身が理想的な世界にいて幸せと歓びに満ちあふれているとしたら、本当に私たちに寄り添うことはできません。如来の「悲」とは、如来ご自身の救われざる悲しみにおいて私たちに寄り添う心、私たちと一つになる心です。
 つぎに悲願の「願」とは、その「悲」を根拠として私たちにはたらきかける如来の「願い」です。私たちはわが身の現実や未来に立ちはだかる大きな壁の前でうめいています。如来は、そのうめきに寄り添ってくださって、壁を乗り越える道がお念仏(ねんぶつ)の道として開かれていることに、どうか気づいてくださいと私たちに「願」ってやまないのです。
 「しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足(ぼんのうぐそく ※)の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」『歎異抄(たんにしょう)』
 如来は、かねてより、私たちの本当の姿をお知りになってくださっていて、「汝(なんじ)は煩悩具足の凡夫なのです」と呼びかけてくださっているのです。私たちは、その呼びかけのなかに、わが身の罪業(ざいごう)の根深さ、割り切れなさ、悲しみの深さを知らされ、人間として本当に悲しまなくてはならないことに無関心であったわが身に目覚めるのです。如来の悲願なしに、悲しみの凝視はありません。

煩悩具足
様々な煩悩をすべてそなえて生きていること。

大江 憲成氏
九州大谷短期大学名誉学長

『暮らしのなかの仏教語』(東本願寺出版)より
仏教語 2019 02

僧侶の法話

言の葉カード

 私のおばさんは六十六歳で亡くなりました。お寺に嫁いだ方で、亡くなる一週間前、連れ合いである住職と一緒に「阿弥陀経(あみだきょう ※)」をお勤(つと)めしていたそうです。お勤めが終わった後、おばさんは住職に聞いたそうです。「お経の言葉に出てくる『恒河沙数諸仏(ごうがしゃ ※しゅしょぶつ)』ってなんや」と。そしたら住職は、「これはガンジス川の砂の数や。そのぐらいの数の仏さんのことや」と答えられたそうです。するとおばさんは、何て言ったかといいますと、「私はこんなにたくさんの仏さんに見守られていたんか。私は本当にたくさんの人に支えられていたんか。ごもったいない」と言われたそうです。そして一週間後に亡くなっていかれました。
 本当に幸せやとおっしゃっていた。また、本当に尊い瞬間を生きているんやともおっしゃっていました。そして「ごもったいない」と。それは自分自身を見捨てていないということであり、受け入れているということでしょう。
 「今のままではだめだ。もっともっと上へ、もっともっと前へ」となってしまうと、今、この場所を生きていない。私たちは、今、ここに存在することがどれだけ尊いことでありがたいことか、ということに気がつかずに、「足りない足りない」と言いながら自分自身を見捨ててしまいます。そこで聞こえてくるのが、「あなたを見捨てない」というお念仏(ねんぶつ)の教えでありましょう。「このような教えに出あえ、たくさんの人と出会えて幸せや」という思い。それが「ごもったいない」という言葉でした。

阿弥陀経
浄土真宗で大切にされる経典(お経)の一つ。
恒河沙
数の単位の一つ。

大窪 康充氏
真宗大谷派 浄土寺住職(石川県)

真宗会館「日曜礼拝」より
法話 2019 02

著名人の言葉

言の葉カード

 『歎異抄(たんにしょう)』という本の最初のところに、著者である唯円が「耳の底で聞いた」という言葉があります。言葉というのは、耳の底で聞くんだというわけです。耳の底で聞くということは、声になっていない。声というのは耳で聞くわけですから、耳の底で聞くというのは声ではなく、声にならぬ言葉でしょう。
 唯円は『歎異抄』という本を書くにあたって、耳で聞いた言葉ではなく、耳の底で聞いた言葉を、言葉の力を借りてどうにか後世に伝えようとされた。それが私の役割なんだ、ということが、私はこの本が書かれた一番大きい動機に見えるんです。
 人は目で見る言葉、耳で聞く言葉というのをもちろん記憶することもできますが、耳の底で言葉を聞く。耳の底で聞いた言葉を、自分の心の奥底に生かしておくということはどういうことなのかということが、すごく大事だと思うのです。
 「私の大事な言葉はこの言葉です」と言えるような言葉もあります。それはそれで素晴らしいし、それは強く自分を支えることもあるんだ、とも思いますが、人の人生を根本で生かしている言葉というのは、すごく平凡で、すごく凡庸で、もしくはその言葉を人前で話したら、「え?何その言葉」と言われるような言葉だと思いますね。
 私たちはその中で、言葉を探さなくてはいけない。もしくは相手に言葉を贈らなくてはいけないとなったら、あまりそんな難しい言葉ではないような気がします。だから言葉を受け取るのも、どれだけ凡庸な、しかし素朴で力強いものを受け取れるかどうかというところに、すごく大事なところがある。そうだなと思うような、深い気付きを与える言葉も、もちろん悪くはありませんが、その気付きを覚えるよりも、もっと深いところで、私たちは日々の「生」を生きている。そこを照らす言葉というのに出会えるといいなと思いますね。

若松 英輔氏
批評家

サンガネット特別シンポジウム
「言葉×仏教 人間にとっての”物語”を考える」より
著名人 2019 02