僧意工夫

迷走しながら思いを綴る 
お坊さんのエッセイ

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 8月といえば「お盆」———。地域によって違いはありますが、多くはこの時期にお迎えする人が多いでしょう。盆期間のお寺の様子も様々です。各家々に読経に走り回るお坊さん、お寺でお盆の法要や行事を行うお坊さん、法話の席にお話に出向かれるお坊さんなどなど。いずれにしても忙しい時期に変わりはありません。。。
(新型コロナウイルスの影響でさらに状況は様々です)

 今年のお盆も終わったなぁと寺の片づけをしながら、コロナ以前のことを振り返っていました。
 私が身を置くお寺がある地域(田園風景の広がる)では、先祖や亡き人が帰ってくるとされる(※)盆中には親族一同で食卓を囲むという風景がありました。お宅によっては近い家族だけと、時代の流れとともに集まる人数は減っても、十数人で食事する天ぷらや煮物などの大皿料理が机一面に並ぶのです。「先祖を囲んで賑々しく」という風習と感覚が受け継がれているのでしょう。
 余談にはなりますが、広間で読経中にもかかわらず食事の準備のほうが気になるのか、ソワソワしている人たちがいたことも背中越しに感じていました。。。
(※「迎え盆」や「送り盆」という習わしを大切にする地域特有の習俗)


 スマート化しすぎる社会は、意味のあるなしで物事を判断する現実主義的な感覚が多くなります。この「先祖(や亡き人)を囲んで」といった感覚は、目に見えたり、実存的な効果があるわけではなく非科学的で不合理とも捉えられますから、「そうであれば面倒だ」と、人によっては無意味なことのほうに分類してしまいます。
 しかしながら、「お盆を迎えることで」「料理を囲むことで」「墓参りをすることで」というカタチをとることは、同時に、私たちを尊い空間に振り向けます。そして、想像力を養い、視野を広げ、慮る心を育ててくれる、そんな機会となりうるのです。
 こちら側が先立って逝かれた方々を縁に手を合わせるわけですが、反対にこちら側が大きな願いをかけられているのかもしれません。


 最後に、とあるお宅で聞いたエピソードを紹介します。「私が小さいときは、『学校の通信簿』も『会社の給料袋』も、いの一番に仏壇にお供えしたもんだ」と。
 はたして、意味のあることでしょうか? 意味のないことでしょうか? はたまた?

  (※本コラムは宗派・宗旨の教義や解釈を述べたわけではありませんのでご了解ください)

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