迷走しながら思いを綴る
お坊さんのエッセイ
第5話
コロナ下の生活となって以降、マスクをつけての日常があたり前となりました。顔の半分が隠れていると「この人はえっーと…」と、声を聞くまで、あるいは会話が進むまで「誰だかわからない…」「後でわかる」という場面が多くなった気がします。(私だけでしょうか?)
とある法事の場面。読経と焼香が終わりマスク着用のまま法話(お話)をし始めて数分、<コクリ、コクリ…>。暖かい気候となり、初夏の風が気持ちよく吹き抜ける本堂。目が覚めるほどの大事なお話ができていない自分を痛感させられるほど、スヤスヤと居眠りに入られた若い参詣者がいらっしゃいました———。
自分自身を棚上げするつもりはありませんが、あらゆるところで言われるようにマスク生活下の「コミュニケーション」や「対話」、「伝え方」に一工夫が必要なのかもしれません。先ほどの法事の場面を例にいえば、人の話は耳で聞く以上に、話者である相手の口元や表情からも情報を得ているのだと思います。(繰り返しますがこちら側の問題でもあります…)
ある記事に「マスクが子どもの発達に影響?」というタイトルの特集がありました。詳しくは触れませんが、赤ちゃんはおおよそ1歳ぐらいまでの間に、いろいろなヒトの顔や顔の動きを観察して表情を学ぶといわれているそうです。その後の成長過程の中で、喜怒哀楽の顔の区別を学習する。そしてそれらの学びが、相手の気持ちを理解したり、相手の立場となって物事を考えるということの元になっていくそうです。
子育てや保育の現場では、声の高低や大小を意識して話す、身振り手振りを交えたボディランゲージなどを使って感情を表現するなどの試みを行っているとも聞きます。
このような状況下であっても、社会全体で子どもたちを育てていくという意識は、これまで以上に持ち続けていきたいものです。
「相手の気持ちを理解しようとする、相手の立場となって物事を考える」ということは、マスク着用以前から通底する私たちの課題とすべき事柄です。大変な思いを抱えている人、多くのご苦労を重ねている人がたくさんいる。自分の都合だけを中心にしていたと一人ひとりが気づかされる時、「人」が「憂」れい合う「優」しい世界が広がっていくのではないでしょうか。
マスクで表情が隠れていても、その下には、きっと多くの笑顔が溢れていると願うばかりです。