僧意工夫

迷走しながら思いを綴る 
お坊さんのエッセイ

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 あるお宅のお参りからの帰り道。車のラジオから流れてきた曲を何気なく聞いていたら、歌詞の一部が心に止まりました。それがこの言葉――。
 正式な歌詞や誰の曲なのかはわかりません。何となく覚えているのは、歌い手のシンガーソングライター自身が、人やモノや情報が溢れる大都会・東京の雑居感と都市化してしまった自分の生活感覚の違和感を客観的に綴った歌だったように思います。

 話は変わりますが、ここ数年「多様性」という言葉が様々な場面で言われるようになりました。本来の人間の姿を言い当てたものであり、尊重すべき事柄です。しかし人間には、「比べる」という心がどうしても抜けません。自分たちか自分たち以外かという選択肢に常に立たされますので、「認め合う」や「ともに」と口で言いながらも、その言葉と心の根っこの部分にギャップがあるような気がしています。
 もう一方で、多様性という言葉を武器にして、気づかぬうちに利己的な考え方を押し付けてはいないかと自分自身に思うことさえあります。

 最近の考え事と重なって、ふと耳に飛び込んできたフレーズが心に止まったのかもしれません。
 同じ風景や景色を見てるつもりでも、見た人によって感想は違います。同じ人の発言を聞いても、聞いた人によって感じることは違います。Aさんという人に対しても、Bさんから見たAさんとCさんから見たAさんは違います。自分を中心にした物の見方を隣りの人もしているわけですから、感覚の違いは必ずといっていいほど起こってくるわけです。

 お釈迦さまは「正見(しょうけん)」というものの見方が大切だと説かれました。自己を形成する見たもの、聞いたもの、発した言葉…。それらは本当に「正」しく「見」てのことなのか。言葉が刃となってインターネット上にあふれる昨今、お釈迦さまが言われる正しく見るとはどういうことなのか、考えたいものです。

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