僧侶の法話

言の葉カード

 私は北海道にご縁がありまして、日高地方のコンブ漁師の方と出会いました。その方はコンブ漁師が嫌で嫌で、若い頃に東京へ出て本当に自分の好きなことをやりながら過ごしたそうです。しかし時が経つにつれ、その方は「楽しいけれど、もういい」と思われたのだそうです。何かが足りない。もうこんな生活はいいと、北海道へ帰りコンブ漁師になったそうです。そしてこうおっしゃいました。
 「私も63歳になった。両親を見送って、子育てが終わり、私の人生もあと20年。何の意味があったのだろうか」と。私は、その方に人間は意味を明らかにせずにはおれないということを教えていただきました。人間が生きる道を問い尋ねるには、何らかのきっかけが起こるということです。
 真宗大谷派のあるお寺の門前にこんな言葉が掲(かか)げられていました。
 「昔は何もなかったが、何かがあった。今は何でもあるが、何かが足りない」
 本当に何が欲しいのか。物はたくさんあるのですけれども、本当に必要なものは何かと問われると、それが何かが分からない。これは貧しさということでしょう。そんなことを現代の問題として感じました。どんなに時代が豊かになろうとも、やはり人間というのは、人間関係の中で悩みを抱くものです。本当に何とも言えない痛みや空虚さを感じるものです。人間が抱えるその好ましくないと思えるような様々な問題が「さぁ、道を訪ねていこう」という形で実は人を押し出していると、私は教わってきました。

酒井 義一氏
真宗大谷派 存明寺住職(東京都)

「真宗会館のつどい」より
法話 2018 09