私たちはみな、自分の幸せを願います。また、自分にとって大切な人の幸せをも願います。しかし、関わりがない(と自分では思い込んでいる)他者の幸せを願うことは、あまりありません。この言葉は、私たちの中にある生命そのものに対する慈しみを呼び起こすと同時に、他者の幸せを願うことが難しい私たちの姿を克明に描いています。
では、いったい仏教が語る幸せとは何でしょうか。同じく『スッタニパータ』の中に「こよなき幸せ」と呼ばれる章があります。その章は、次の言葉で締め括られます。
世俗のことがらに触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏(あんのん)であること、―これがこよなき幸せである。
様々な困難に遭遇し、自分の思いどおりにいかず、思いが満たされないとしても、心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏であること、それが幸せであると説かれています。視界に入らない他者に眼を凝らし、想像が及ばない世界に身を置く他者を知るためには、自分自身が落ち着いていなければなりません。自らが、様々なことがらに触れ、心がかき乱されてしまうような、他者の不幸すら願ってしまうような状態にあるのであれば、「身・口・意の三業(さんごう)」を整える必要があると仏教は説きます。己の振る舞い「身(しん)」・言葉遣い「口(く)」はすべて心「意(い)」に基づいているので、まずは心を整えることが先決です。そうして心を整える際に指針となるのが、慈しみなのです。
誰もが自身の幸せを願うように、私の眼の前にいる人も、私の眼にはうつらない人も、この私と同じように、自身の幸せを願っています。そのことに思いをいたし、自分を犠牲にすることなく、己の振る舞いと言葉遣いに注意して行動すること。それが幸せを実現するための第一歩となります。
『スッタニパータ』(原始仏典)
大谷大学HP「きょうのことば」2017年1月より
教え 2018 09