この言葉は、大乗仏教の確立に大きな影響を与えた二世紀頃の南インド出身の僧、龍樹(りゅうじゅ)によるとされている『宝行王正論』(ほうぎょうおうしょうろん)の一節です。人はともかくも自分の欲望を解消したいと願いますが、その方法には二通りあります。一つは、自分の欲望を叶えることでそれを解消するやり方、もう一つは、欲望そのものを放棄するというやり方です。そして龍樹は、いずれの場合も人は楽になるが、その度合は、後者のほうが勝っていると言います。
例えば、ずっと欲しかったものを苦労して手に入れたとしましょう。その時は大きな喜びに満たされ、その物を大事にするに違いありません。しかし徐々にその愛着は薄れていき、そしてある時、それよりもよい物を目にしてしまうと、今度はそちらが欲しくてたまらなくなってしまう。
一方、欲望そのものを放棄したならば、さらなる欲望に悩まされることはありません。もちろん一般の私たちは、あらゆる欲望を完全に断つことなどできません。しかし「もうこれで十分」と、どこかで満ち足りることができなければ、人はいつまでも欲望に囚(とら)われ、欠乏感に悩まされ続けます。このように考えると、様々な漢訳仏典に表れる「少欲知足」という言葉が示すように、生きるうえで必要十分なところで満足できるようになることは、とても大切なことに思われます。
市場経済が世界を支配しつつある現代では、いたるところに広告が溢れ、私たちの物欲が常に刺激され続けています。リーマン・ショックの直後には、強欲さに対する批判の声も一部から上がりましたが、経済が回復基調に戻り始めると、そうした声もすっかり聞かれなくなりました。しかし、エネルギー資源の枯渇や環境破壊といった、人間の欲望に起因する諸問題は、一向に解決の糸口が見つかっておりません。少欲知足という考え方は、決して時代錯誤的なものではなく、むしろ多くの物に囲まれて暮らす現代の私たちにとってこそ、切実な意味をもっているのではないでしょうか。
『宝行王正論』龍樹
大谷大学HP「きょうのことば」2014年2月より
教え 2018 10
この「退屈」という言葉は、本来は仏教語なのです。退屈の「退」は、退き、後戻りすること。退屈の「屈」はかがみ込み、屈してしまうこと。で、「退屈」とは、仏道の修行に「屈」し、仏道の歩みが「退」いて失われることなのです。
私たちは、仏道を歩むことで人生を丁寧に生きていこうとします。ところが、自分の力の限界を感じたり、先が見えなくなったりすると、「もういいや」と諦めて、歩みを止めてしまいます。
生きるなかで、壁にぶつかって屈して後戻りしてしまって歩めなくなる。人生の危機ですね。本来、退屈とはそういう人間の挫折の姿が言い当てられている言葉なのです。努力しようとすればするほど、未来に期待すればするほど、挫折は大きいのです。しかし、「退屈」してしまって歩みを止めるわけにはいきません。「退屈」は乗り越えなくてはなりません。
でも乗り越えると言っても、自分一人では限界があります。自分の能力や努力に挫折したのですから、それを超える道は自分のなかにあるはずもありません。そこで、「退屈」を乗り越えるには「師」や「友」の存在が大切であると仏教では教えています。先生の言葉や生き方、そして友だちの姿、それが退屈を乗り越える智慧(ちえ ※)と勇気を与えてくれるのです。
挫折して落ち込んでしまった私に、「そこが出発点なんだよ。そこをはずして未来はないよ。あなたは今、借り物でない自分自身を生きようとしているんだよ」。かつて、その一言で、私はさらに歩みを起こしたことが忘れられません。
挫折をとおして問いが生まれます。その問いがこの私を育ててくれるのです。「退屈」とは、私たち人間に乗り越えるべき人生の課題を教えてくださっている仏教語なのです。
- 智慧
- 知識や教養を表す知恵とは異なり、自分では気づくことができず、見ることができない自らの姿を知らしめる仏のはたらきを表す。
大江 憲成氏
九州大谷短期大学名誉学長
『暮らしのなかの仏教語』(東本願寺出版)より
仏教語 2018 10
現代という時代は、評価地獄の只中にあります。評価地獄を私なりに表現すると、「比べっこ地獄」となります。学校教育も成績順に並べられて評価を受けていく。でも本当は誰も比べられたくないのです。子供たちだけではなく、先生も評価を受ける。そして先生たちを統括(とうかつ)する校長先生たちも評価を受けていく。その数珠(じゅず)つなぎの中で私たちは苦しんでいるのではないでしょうか。
その評価の目とはどこにあるのか。それは社会を作っている私たち一人ひとりのなかに評価者が宿っているのではと思います。ですから、誰がその評価基準を決めているのかといえば、何を隠そうこの私でございましたということではないでしょうか。比べないと安心できない。比べることによって私の立ち位置というものをはっきりとさせていく。自分というものがやっとはっきりする。それが評価社会の中に生きている私たちの生き方ではないのかなと思います。
『浄土論註(じょうどろんちゅう ※)』に、「所求(しょぐ)に称(とな)ひて、情願を満足する」というお言葉があります。所求は、自我の欲求、自己中心的な欲ですが、それだけでは満足できない要求をいのちはもっている。そのいのちの願いを情願というのです。私どもは目先の欲にまみれて、本当の要求を知らないのです。しかし、欲があるからこそ、人間として生まれてきたことを喜びたいという、深いいのちの願いに触れる縁となるのではないでしょうか。一人ひとりが人間として生まれたことを喜びたい。いのちの本当の要求は、自我の欲求によって隠されている。自我の欲求は、娯楽に走ることで、一時的には、満足することはあります。
しかし、本当に満足かと言われれば、何か虚しい。日常心のなかで、いのちの要求や願いに気がつかず、自己関心の中で「自分が自分が…」と生きてしまう。そういった自己関心、自己中心の欲求で、自分を傷つけ、他人を傷つけていく。それが、私たちの評価社会の中に、根っこにあるのです。それは、気がつかないうちに、私たちの習慣となり、それに翻弄(ほんろう)されている。ですから、仏さまは、「本当の欲求に気づいてください」と、南無阿弥陀仏を通して、比べることのない願いの世界に触れさせたいとうったえてくださっているのではないかと思うのです。
- 『浄土論註』
- 中国の僧である曇鸞(どんらん 476~542)の主著。曇鸞は、親鸞の思想に影響を与えた七人の高僧のうちの一人。
雲井 一久氏
真宗大谷派 真照寺副住職(神奈川県)
真宗会館「日曜礼拝」より
法話 2018 10
例えば、「ドストエフスキーを読んで僕は小説家になりました」と言っている人というのは、要するに善導(ぜんどう ※)の教えを知って、法然(ほうねん ※)が弟子になったということと、変わらないと思う。
何がそれをつないでいるかというと「言葉」なんですね。言葉というものが、時代も場所も超えさせてしまう。超越的なことを起こしてしまうという意味では、言葉というものに「ほとけ性」とか「神性」というものがあって、その前では、我々はあらゆることを超えられるのだなと思います。
- 善導(613~681)
- 中国の僧。親鸞の思想に影響を与えた七人の高僧のうちの一人。
- 法然(1133~1212)
- 日本の僧で浄土宗の開祖。親鸞の思想に影響を与えた七人の高僧のうちの一人。
いとう せいこう(作家・クリエイター)
サンガネット特別シンポジウム「言葉×仏教」より
著名人 2018 10