僧侶の法話

言の葉カード

 以前ご縁のあった90歳のある方から「わしが死ぬときは看取ってくれや」と言われたことがありました。その息子さんから「父親がいよいよ最期のお別れかもしれません」と連絡いただき、すぐ行かせてもらうと、すでに枕元には連れ合いさん、子供さん、お孫さんが囲んでいます。「妙慶ですよ、わかりますか」と言うと「あんた来てくれた。ありがとうね」って言うのです。「わしの90年間最高やった。みんなありがとう」っておっしゃいました。私もじーんときておりました。するとそばで聞いていた連れ合いさんが、「あんたは最高やったかもしれんが、私は最悪やったんや」と言われたんです。そして数日経ち、その方はお浄土に還(かえ)られました。すると連れ合いさんは「くやしい」と。なぜこの人は、最期ぐらい私にありがとうと言えんのか。何で自分のことしか考えないのか。私はどれだけ泣かされたかと、恨み辛みをおっしゃったんです。
 その時、私は連れ合いさんに伝えました。「くやしいですよね。たしかに私もいろいろくやしい思いをしている。けれど、身内のあなたに、過去いろいろ迷惑かけたことを言えなかったのかもしれません。それもすべて含めた上で『ありがとう』という気持ちに変わったんじゃないですかね」と。そして、「そのための初七日、二七日…中陰法要があるのだと思います」と。
 感謝されなかった言葉は理解されないかもしれません。受け入れられないかもしれません。けれども、時間とともに、この人は心の奥底では何をうったえているのかということを、しっかりと受け止めていくことが「いのち」の相続ではないかと思います。なので、「息を引き取る」というのは、私たちが「その吐息を引き受ける」ことなんですね。そして、その声を引き受けて、その人の願いとともに、どう私たちが残された命を生きていくのかということです。

川村 妙慶氏
真宗大谷派 正念寺(京都府)

東京真宗同朋の会「報恩講」より
法話 2018 11