2018年霜月(11月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 仏教のどのような点が、このように言えるのでしょうか。この言葉が著わされた書物の中では、以下のように記されています。
「仏教は人間探究の教えである。しかも…中略…人間の現実と本質をば人間の内側から把えようとする。この点からいえば仏教はすべて人間学の性格をもつものである」
 ここには、人間が作り出す時代や社会という現実とその根底に存在する不変的な本質とを、「外側」ではなく、「内側」からの理解を通して探究するところに仏教の特徴がある、と述べられています。重視されているのは、人間が生み出す現実を理解しようとする際、外面的な要因ではなく、人間存在の「内側」に潜む問題に向き合う姿勢です。
 例えば、私たちは友人関係がうまくいかない時、表面上の言動などにその原因を探して、それが解決すればうまくいくのでは、と思うことがあります。しかしこのような見方では、自分やその友人を深く理解することは難しいでしょう。なぜ友人は、あのような言動をしたのか。私はなぜ、それを受けとめられないのか。私と彼は、なぜ互いに歩み寄れないのかなど。このような人間関係の難しさについて、相手への非難に終わるのでなく、自分を責めるのでもなく、相互の「内側」に存在する課題を含めて人間関係を理解しようとすること。そのことが、人間関係の理解にとって不可欠なのだと思います。
 こうした視座から、日々経験される自分や他者との関係を振り返ることで、私たちは人間としてより豊かに深く生きるための大きな糧(かて)を得ることができるのです。

『仏教学序説』

大谷大学HP「きょうのことば」2015年5月より
教え 2018 11

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 我慢…。自分の思いをグッと押し殺して忍耐する。しかしこの「我慢」という言葉は本来は仏教語なのです。「我慢」の「我」は自我の我。「我慢」の「慢」は慢心の慢。つまり我慢とは「自我に基づく慢心」を意味しているのです。
“自我に基づく慢心(我慢)に気づいてください。そして自分の思い込みを破って、どこまでもより深く豊かな人生を歩みとおしてください”という自覚を呼びかける仏さまからのメッセージなのです。
 さて、「我慢」とは「自我に基づく慢心」ですが、まず私たちには「自我(我)」ということがよく解(わか)らないのです。なぜかというと、自我(我)とは、私たちの意識の奥底にはたらいていて、自分の都合を作り出している根であるからです。自分が身勝手な存在であるなどとは自分自身では解りようもありません。だから仏さまの呼びかけに出あうことが大切なのです。
 つぎに「慢心」とは、他と比較する心です。私たちは周りと比較して、他より勝れているとか、他より劣っているとか思ってしまい、時には優越感に浸って有頂天になってみたり、またある時には劣等感にさいなまれて落ち込んでみたりします。しかしその優越感と劣等感は同根であり、日頃の心では気づかない我慢という根をもっているのです。
 本来人間の存在に優劣というのはありません。ところが人間の思い込みに基づく比較する心、つまり我慢が人間を縛っているのです。
 私たち人間は、人間として気づかなくてはならないことが二つあります。一つは、人間はみな比較を超えて無上なる自己をいただいて生きているということ。二つは、その無上なる大切な私に気づかなくてはならないのに、気づこうともせず鈍感にすませている自分自身の、その根を尋ねること。つまり根を尋ね、自我に基づく慢心(我慢)の根深さに気づくことで、独断を破ってさらに人生を歩み続ける者になるのです。

大江 憲成氏
九州大谷短期大学名誉学長

『暮らしのなかの仏教語』(東本願寺出版)より
仏教語 2018 11

僧侶の法話

言の葉カード

 以前ご縁のあった90歳のある方から「わしが死ぬときは看取ってくれや」と言われたことがありました。その息子さんから「父親がいよいよ最期のお別れかもしれません」と連絡いただき、すぐ行かせてもらうと、すでに枕元には連れ合いさん、子供さん、お孫さんが囲んでいます。「妙慶ですよ、わかりますか」と言うと「あんた来てくれた。ありがとうね」って言うのです。「わしの90年間最高やった。みんなありがとう」っておっしゃいました。私もじーんときておりました。するとそばで聞いていた連れ合いさんが、「あんたは最高やったかもしれんが、私は最悪やったんや」と言われたんです。そして数日経ち、その方はお浄土に還(かえ)られました。すると連れ合いさんは「くやしい」と。なぜこの人は、最期ぐらい私にありがとうと言えんのか。何で自分のことしか考えないのか。私はどれだけ泣かされたかと、恨み辛みをおっしゃったんです。
 その時、私は連れ合いさんに伝えました。「くやしいですよね。たしかに私もいろいろくやしい思いをしている。けれど、身内のあなたに、過去いろいろ迷惑かけたことを言えなかったのかもしれません。それもすべて含めた上で『ありがとう』という気持ちに変わったんじゃないですかね」と。そして、「そのための初七日、二七日…中陰法要があるのだと思います」と。
 感謝されなかった言葉は理解されないかもしれません。受け入れられないかもしれません。けれども、時間とともに、この人は心の奥底では何をうったえているのかということを、しっかりと受け止めていくことが「いのち」の相続ではないかと思います。なので、「息を引き取る」というのは、私たちが「その吐息を引き受ける」ことなんですね。そして、その声を引き受けて、その人の願いとともに、どう私たちが残された命を生きていくのかということです。

川村 妙慶氏
真宗大谷派 正念寺(京都府)

東京真宗同朋の会「報恩講」より
法話 2018 11

著名人の言葉

言の葉カード

 悩んだり迷ったりすることが人生の醍醐味(だいごみ)であれば、迷っていれば、迷うことに誠実でありたい。悩むのであれば、悩むことを丁寧に悩みたい。そのことで嫌になってあきらめたり、簡単に投げ出して結論を急いだり、誰かの答えに飛び付いたりするのではなく、悩んでいる、迷っている、これが人生でとても大切なことなのだと自分で思い定めて、真剣にそのことに向き合っていきたいのです。それは決して無駄なことではなく、すごく豊かな在り方であると思うのです。
 また、そういう大人の姿を見せることは、これからの若い世代にもすごく意味があることではないでしょうか。簡単に答えに飛び付かない、便利さに逃げない。悩んだり迷ったりしながら、一つひとつのことを丁寧にやっていく。お皿一つ、コップ一つでも丁寧に洗っていく。そんな大人の姿を見たら、子どもにもきっと何かが伝わっていくはずです。

天童 荒太(作家)

親鸞フォーラム抄録『sein vol.3』より
著名人 2018 11