物語のなかに、国王の息子として生まれた青年ゴータマ(※)が宮殿の外に出たときに、老人や病人や死人、そして沙門(しゃもん)<求道者>の姿を見るという場面が描かれています。いわゆる四門出遊(しもんしゅつゆう)の物語です。そのなかで、ゴータマは病人の姿に接し、これまで見たことのないその様子に驚き、そばに仕える御者(ぎょしゃ)に、あの者は誰か、と尋ねます。御者は、かつては壮健だったにもかかわらず、いまは身体の自由がきかなくなり、あのような姿をしているのは、病という大きな不幸のせいなのだ、と答えます。すると、ゴータマは「病の恐れは生きものにおしなべてあるのか」と、この言葉を御者に投げかけます。御者はこう返答します。これは人に共通のものだと。そして、人は病におしつぶされ苦痛にあえぐということがあるのに、一方では平気でいて人生を楽しむのだと。
私たちの日常には「今を楽しもう」という言葉があふれています。それは楽しめないような状況があることの裏返しでもありましょう。楽しむことは人をいきいきとさせる原動力そのものですが、楽しむことで覆(おお)い隠されてしまうものを、楽しむという態度からすくいとられずこぼれ落ちてしまうものを、ゴータマは見つめようとしたと言えます。この言葉には、苦悩に直面してもなお刹那(せつな)的な楽しみを生きる拠り所にするのか、という問いかけが暗示されています。だからこそ、次に私たちはこう問わなければならないでしょう。では、私は何を拠り所にして生きていくべきなのでしょうかと。仏陀(ぶっだ ※)の意味を問うてきた人たちにとって、最も大切で根本的な問いがここにあるのです。
- ゴータマ
- お釈迦さまの青年時代の名前
- 仏陀
- ブッダ。お釈迦さまのこと
『ブッダチャリタ』(原始仏典)
大谷大学HP「きょうのことば」(2014年9月)より
教え 2018 03