僧侶の法話

言の葉カード

 親鸞聖人がよく仰った言葉に「弥陀(みだ)の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業(ごう)をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願(ほんがん)のかたじけなさよ」(※)という言葉があります。弥陀(阿弥陀如来 あみだにょらい)の「皆さん」という呼びかけに対し「私自身が呼ばれている」と受け取った方が親鸞聖人です。凡夫(ぼんぶ)の自覚があればこその当事者感覚だと思います。弥陀の本願(ほんがん ※)は正しく自分にかけられているという当事者の感覚が「一人」の自覚です。
 「成就」という言葉は、成就し続けるという現在進行形の意味で捉えなくてはなりません。ですから、「すでに成就してしまった」「成し遂げてしまった」ということではない。「学業成就」となれば、勉強し学校に入り、その学びの本質を体得し、その学びを基礎として社会に出て生きて行かなくてはなりません。
 ですから「一人(いちにん)の成就」ということは、聞法(もんぽう ※)の生活でいえば、弥陀の本願の当事者であることをうなづいていく凡夫の歩みということです。弥陀の本願の話を聞き続ける歩みをしていくということ。それがお念仏(ねんぶつ)の人生を歩んでいくということなのです。

※『歎異抄(たんにしょう)』という書物の言葉

弥陀の本願
全ての生きとし生けるものを救いたいと発された阿弥陀仏の願い
聞法
仏の教えを聴聞すること

齊藤 研氏
真宗大谷派 正楽寺副住職(新潟県)

真宗会館「日曜礼拝」より
法話 2018 06