お釈迦さまがお亡くなりになる少し前に語られた言葉と伝えられています。何事かを成し遂げた人だから言えた言葉と思われるかも知れませんが、そうではないでしょう。「人間の生命」はみなにあたえられたものです。その与えられた「人間の生命」を、今、生きている。苦しみとして受けとめているその人生が「甘美なもの」であり、そのように受けとめる道があると教えているのが、このお釈迦さまの言葉なのです。
心臓の鼓動は、力尽きるまで止まりません。生命が、一つの文句も言わず、生の終わりまで私を生きてくれている。その生命を、自分で見捨てない道を求めてほしい、本当に大切に生きる道を求めてほしい。それがお釈迦さまの私たちへの遺言なのです。
『仏典のことば』中村元訳
(岩波現代文庫)
鶴見 晃氏
真宗大谷派 教学研究所所員
「サンガ」No.133より
教え 2018 07
世間では「釣り三昧(ざんまい)」「読書三昧」「ゴルフ三昧」等々、何かに夢中になっている状態を「〇〇三昧」といいます。三昧とは、もともと仏教語で「何ものかに心を集中することによって、心が安定した状態に入ること」という意味だそうです。このようにいわれると、なんだか自分とはかけ離れたことのように感じます。しかし、もっと身近なことのようにも思えます。
「物忘れ」は老化現象ではなく「三昧」のなせるワザではないかと最近気づいたのです。冷蔵庫までやって来て、扉を開けて、「ええと? 何を取りにきたんだっけ?!」となる。これは普通「老化現象」で、歳のせいにされてしまいます。しかし、そうとばかりはいえないと思います。私たちの頭はいつも留(とど)まることなく動いています。身は一カ所に留まっていても、思いは留まっていません。ですから、冷蔵庫にビールを取りにいこうと思って、歩いている間に、頭は勝手につぎの思いに展開しているのです。ですから、実際に身が冷蔵庫に到着したときには、思いはそこにないわけです。それは「老化現象」でなく思いが深く「三昧」の状態にあるからこそ、身と時間差が生まれてしまうと解釈したらどうでしょうか。頭は身と異なり同時に二つのことをやるのです。見ながら考える、食べながら考える、話しながら考える。そういう意味では、頭はいつも「思考三昧」に入っているといえそうです。思考は思考自身のシステムによって動いています。自分の自由になるものではありません。
武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
月刊『同朋』2002年7月号より
仏教語 2018 07
「ありがとう」は、「有(あ)ること難(かた)し」というお経の言葉が元であります。この○に入るのは、「あたりまえ」です。ご飯の用意ができていてあたりまえ、洗濯物がきれいになっていてあたりまえ…といろいろあります。つまり「有ること難し」ではなく、実態は「もっと、もっとの要求ばかり」が私の姿です。ありがとうの言葉を知っているだけで、本当に感謝しているのかといえば口から出て来ません、忘れています。立ち止まって考えると私の「あたりまえ」の日暮らしが、実はどれだけ「ありがたい」か、ということでありましょう。
さて最近ご身内を亡くされて、このお盆の法要にお参りになったという方も、もしかしたらいらっしゃるかもしれません。お通夜や葬儀をお勤(つと)めになって、どんなことをお感じになったでしょうか。「寂しいなぁ」という思いや、「やっぱり別れたくないなぁ」という気持ちもあったかもしれません。私は、お通夜のときに二十分ほど時間を作っていただいて、そこでお話をさせていただいております。何の話をするかというと、「生老病死(しょうろうびょうし)」の話をさせていただきます。「生、生まれ」、「老、老いゆき」、「病、病を得て」、そして誰しもが必ず「死、死にゆく」。大切な方を亡くされたその悲しみの中で、共々に私の身に具(そな)わる生老病死を学ばせていただきましょう、というお話をしています。もっと尋ねてみますと、お経を説かれたお釈迦さまも、少しおこがましいかもしれませんが、この「生老病死」の問題がきっかけとなり出家されました。そうしますと、お釈迦さまも我々と同じ悩みを持ち、人と生まれたこの課題によって出家され、やがてお悟りの道を歩んでいかれたということが言えるわけであります。
篤 英仁氏
真宗大谷派 御影寺住職(栃木県)
真宗会館「お盆法要」より
法話 2018 07
右往左往している方が、正しい人間の在り方だと思います。そこにこそ生きていることの豊かさがある。悩んだり、迷ったりすることが、生きていることの意味だと思うのです。私たちは日常的に様々な選択をしなければならない状況に直面します。子どもだったら、受験先はどこにするのか、就職するのかなど、その時々において悩むことになります。あらゆる人が、それぞれの局面で悩み、迷っている。私は、迷いの質の中にその人の人生の豊かさがあると思っています。迷いも悩みもない人生なんて、これほどつまらないものはない。自分も小説を書く時に、すらすら書ける時は駄目だなと思うのです。
天童 荒太(作家)
親鸞フォーラム抄録『sein vol.3』より
著名人 2018 07