この言葉は、親鸞の和讃(※)の一節です。その全文は次のようなものです。
よしあしの文字をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを 善悪の字しりがおは おおそらごとのかたちなり
(よしあしという文字を知らない人はみんな、真実の心を持った人です。善悪の文字を知ったかぶりして使うのは、かえって大嘘の姿をしているのです。)
この和讃は、親鸞が自らを省みて述べた短い言葉ですが、真理を求めて学問する者ですら陥る、そんな落とし穴の存在を教え示しているように思います。本気に探求する者だからこそ自らを確かなものと信じて邁進(まいしん)するのでしょう。しかし、それが誰もが賞賛する知的な営みと態度であるがゆえに、余計に気づくことが難しい落とし穴があるのです。
「まことのこころ」を見失わずに、学び続けること。それは至難(しなん)の業(わざ)かもしれません。それでも、私たちは学び続け、思索しなくてはなりません。悲しいかな、私たちは、それほどに傲慢(ごうまん)な存在なのです。そこに、この和讃に込められた親鸞の慚愧(ざんき)と、自らを戒(いまし)めたこころが感じられるのです。
- 和讃
- 親鸞が人々に親しみやすくつくった詩
親鸞「正像末和讃」
大谷大学HP「きょうのことば」(2013年6月)より
教え 2018 01