2018年睦月(1月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 この言葉は、浄土真宗の僧侶、蓮如(れんにょ)の言行を集めた書物の中のものです。この前後の文章の大意は次のようなものです。
よいことをしたのがわるいことになってしまう場合がある。逆に、わるいことをしたのがよいことになる場合もある。よいことをしても、「私は、正しい教えにもとづいてよいことをしたのだ」と思い、そこに、私が、という自分を中心に置こうとする思いがあるならば、それはわるい結果につながってしまうだろう。それとは反対に、たとえわるいことをしてしまったとしても、自らの自己中心的な思いに深く気づかされたならば、わるい行いの経験が、かえってその人を真実に目覚めさせてゆくのだ。
 私たちは、何かをする時、「これをすればよくなるか、わるくなるか」「あれをしたことはよかったか、わるかったか」というように、自分の価値観とそれにもとづく評価にとらわれてしまいます。しかしこの言葉は、私たちのそうした独善的な姿に気づかされることこそが、本当に大切なことであると言っているのです。

『蓮如上人御一代記聞書』

大谷大学HP「きょうのことば」(2015年1月)より
教え 2018 02

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 「彼は同期で一番の出世頭だ!」など、「出世(しゅっせ)」という言葉は、立派な地位、身分になる事、更には経済的に豊かになるといった意味で用いられます。この「出世」、実は仏教語なのです。
本来は、仏さまが衆生(しゅじょう ※)救済のためにこの世に生まれ出ること、出世間(しゅっせけん)の略とされます。
また、俗世を離れた仏道の世界という意味も持ち、迷いの世界(世間)から飛び出せば、考え方や価値観を超えて、広々と豊かに生きていける素敵な世界があることを、この言葉は浮き彫りにしています。
会社内の出世争いなんて、何だか狭苦しいものに感じてきませんか? 深呼吸して、かた苦しい日常から出世してみてはいかがでしょうか。

衆生
生きとし生けるもの

仏教語 2018 02

僧侶の法話

言の葉カード

 石川県の能登半島の方では「たい・たら・ぶりは往生のさまたげになる」と言われるそうです。「鯛」「鱈」「鰤」を食べてたら往生のさまたげになるという訳ではありません。「たい」は「ああしたい、こうしたい、ああなりたい、こうなりたい」。「たら」というのは「あの時こうだったら、あの時こうでなかったら」。「ぶり」は「判ったふりをして、つもりになって生活をしている」ということ。往生とは、今を生きるということです。今をいただいた時、はじめて未来がきまる。この身このままをいただく。人生を充実しなくてはとか、人生に意味を持たせようとかというのは、今を受け取ってない証拠だと思うのです。充実は往生にしかない。「たい・たら・ぶり」を教えられていく、気づかされていくということが、聞法(もんぽう ※)の場にちゃんとあるのです。

「聞法」
仏の教えを聴聞すること

田中 顕昭氏
真宗大谷派 西教寺住職(長崎県)

真宗会館「日曜礼拝」より
法話 2018 02

著名人の言葉

言の葉カード

 現代の社会はスピードや効率を求める世界ですね。できるだけ早く効率よく仕事をこなしていく。そういう社会では迷うということが許されなくなったんですね。言葉というものはそもそも迷うためにある。変な言い方ですが、迷うことによって新しい世界を開くことができるし、幅ができるんですね。忙しい社会ではそれができなくなりました。
 愚直でも、言葉を発するしかない。迷うことを許せるような世の中、すぐに答えはでなくていいから、それを許せる世の中、それがないと真実とは何かという問いを立てることができないと思うのです。

「サンガ」No.108より
著名人 2018 02