2018年葉月(8月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 仏教を学び始めたばかりの頃、学生時代の友人から「仏教をやって今までの自分と何か変わったか?」と聞かれて、返答に困ったことがありました。なぜなら仏教を学んで生活が快適になったわけでも、理想の自分になれたわけでもなかったからです。むしろ、どうしようもない自分の有り様が見えてきて、苦しいし辛いんだと、私はその時に答えました。
 「教えとは鏡である」と善導(ぜんどう ※)大師は言いました。それは自分にとって都合のいいものを映してくれる鏡ではなく、嫌なところ、見たくないところも含めて、自分の存在の事実を知らせてくれる鏡なのでしょう。シモーヌ・ヴェイユという哲学者は、私たちの「実在」について「固くて、ざらざらしている」(『重力と恩寵(おんちょう)』)と表現しましたが、その手触りの悪さこそが、幻想ではない、人間が生きていることの本当の実感なのかもしれません。
 私たちは誰だって美しいものに囲まれて、快適に生きていたいと考えます。しかし仏教とは人間を理想に近づける為の教えではありません。自己と和解するこの生き難い現実の中で、罪悪深重(ざいあくじんじゅう ※)、煩悩具足(ぼんのうぐそく ※)であるという人間の事実を教えられながら、それでも目を背けず、自分自身と向き合っていく道であると私は思います。

善導(613~681)
中国の僧。親鸞の思想に影響を与えた七人の高僧のうちの一人。
罪悪深重
人間が生きていくうえで犯す罪や悪が深く重いこと。ここでいう罪や悪は法を犯すことを指すのではなく、例えば肉や魚の命を食べながら生きていることや嘘をついたりすること。
煩悩具足
様々な煩悩をすべてそなえて生きていること。

『観経疏(かんぎょうしょ)』善導

花園 一実氏
元親鸞仏教センター研究員
「サンガ」No.135より
教え 2018 08

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 昨今「道楽」という言葉は、ずいぶん旗色が悪い言葉になっています。「道楽息子」とか「道楽者」という言葉を耳にするとドキッとします。が、もともとは「悟りの楽しさ」を表現した仏教の言葉です。また親鸞聖人は『正信偈(しょうしんげ ※)』で「信楽易行水道楽(しんぎょういぎょうしどうらく)」(易行の水道、楽しきことを信楽せしむ ※)と言われています。
 人生を道に譬(たと)えれば、「道楽」とは「人生を楽しむ」とも読めます。それを私は「生活の味を味わう」と受け止めています。味には、甘い味、辛い味、酸っぱい味、苦い味、渋い味、醍醐味(だいごみ)というのもあります。無限の味わいの世界があります。決してひととおりではありません。目の前の出来事から無限の味を味わいたいものです。
 先日、姑(しゅうとめ)を浄土へ見送られたお嫁さんに会いました。入院中もお嫁さんには冷たく、感謝の言葉もない姑さんだったそうです。辛い看病だったといいます。ところが、亡くなった後で看護婦さんや同室の方のお話を聞いて驚いたといいます。「うちの嫁はいろいろと世話をやいてくれる、いい嫁なんです」とお嫁さんをほめておられたというのです。その言葉を聞いて、お嫁さんは恥ずかしさと済まなさで涙がこぼれたといいます。
 人間には、他者の一面しか見えません。つまり、ひとつの味しか味わっていません。ところが、他者にはさまざまな面があります。目の前の出来事を無限に味わえる舌がほしいものです。味わいとは、甘いだけではありません。辛(つら)いことを辛(から)味にも転ずることができるのです。

『正信偈』
正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)。真宗門徒が朝夕お勤(つと)めする親鸞が書き記した漢文の詩。
易行の水道、
楽しきことを信楽せしむ
「難行の陸路、苦しきことを顕示して」に対する言葉。難行は自力による困難(陸路を歩く)な行。易行は他力による修しやすい(水路を渡る)行。

武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)

月刊『同朋』2001年7月号より
仏教語 2018 08

僧侶の法話

言の葉カード

 お盆の風習というのは、例えば送り火を焚(た)いたり、向かい火を焚いたり、各地で様々だと思います。亡くなられた人の魂が、あの世というところにいると考えられている。そして、お盆の間だけこの世の実家に呼び寄せてもてなしをし、お盆の3日間を過ぎるとまたあの世にお引き取り願う。皆さんもそういう思いをお持ちではないでしょうか。
 高村光太郎さんの詩に「亡き人に」というものがあります。妻を亡くし、自宅のアトリエに戻られてその翌朝に書かれた詩です。その最後に「私はあなたの愛に値しないと思ふけれど あなたの愛は一切を無視して私をつつむ」と述べられています。これはいったい、どのような意味なのでしょうか。それは私たちが、「亡くなった人をどう見ているのか」という問題があるんだろうと思います。
 法事が終わった時「やれやれ法事が終わった」と思いませんでしょうか。「はぁ、やっと終わった。さっぱりした」と。そういう言葉をよく耳にします。手間のかかるもの、厄介なものというように思っているという事ではないでしょうか。
 私たちは「大事に法事をお勤(つと)めする」と言いますが、手間のかかるもの、厄介なもの、というように思っているまま行ってしまうならば、私はあなたの愛に値しないと思わざるをえないのではないでしょうか。そういう自分の在り方に気が付いて、恥ずかしいなと思う時に、亡くなられた人に出遇(あ)えるのではないでしょうか。

本間 幸惠氏
真宗大谷派 蓮心寺(青森県)

真宗会館「お盆法要」より
法話 2018 08

著名人の言葉

言の葉カード

 言葉の関節を外し、言葉から意味をなくしてぐにゃぐにゃにしてしまう。言葉はすっぱだかとなり、頭ではなくカラダの回線に入っていく。例えば言葉の繰り返しによって、同じリズムがえんえんと続くと言葉は中身を解体されて、音だけになっていく。そこが気持ちいい。
言葉というのは相手に伝えるのも大事だけど、そうやってわざわざ言葉を壊して、訳のわからなくするというのもすごく面白い作業なんですね。何回も何回もくり返し声に出して、ついに自分の身体にぴったりついた読み方を発見できたときは、本当にうれしいものです。

ねじめ しょういち(詩人・作家)

「サンガ」№142より
著名人 2018 08