仏教の教えについて

言の葉カード

 親鸞は「世のひと」が善人こそ救われるという主張に立っていることを知っています。そのことを知ったうえで、あえて「悪人こそが救われる」と説いていきます。これは親鸞が、いま目の前にしている人に向かって、「あなたは善人なのか、悪人なのか、どっちだ」と迫っているようにみえます。
 仏教では「悪」を「十悪(じゅうあく)」と教えます。「殺生(せっしょう)・偸盗(ちゅうとう/盗み)・邪婬(じゃいん)・妄語(もうご)・綺語(きご)・悪口(あっく)・両舌(りょうぜつ)・貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・邪見(じゃけん)」です。食事は殺生ですし、喧嘩(瞋恚)や嘘(妄語)や誇張(綺語)や自己弁護は日常茶飯事です。このように「悪」を精査していくと、とても自分は「善人」とは言えません。そこで教えを聞くまで自分は「善人」だと思っていた人を悪人として自覚させます。
 しかし、親鸞はその自覚にも揺さぶりをかけます。悪人とは、阿弥陀(あみだ)さんが私を呼んでくださる呼びかけなのに、自分が悪人だとわかるのは、善人の自己反省だと。自分が阿弥陀さんでもないのに、なぜ自分を悪人と呼べるのかと批判します。
 どこまでいっても「偽善の善人」でしかないと教え、しかしその底に、「偽善の善人」をこそ「汝(なんじ)、悪人よ」と呼びかけてくださる阿弥陀さんの悲愛(ひあい)がはたらいてくださるのです。
 「悪人が救われる」のではなく、救われた人間の自覚が「悪人」だったのです。

『歎異抄(たんにしょう)』(唯円)

『なぜ?からはじまる歎異抄』
(東本願寺出版)より
教え 2025 09