

人は必ず死ぬものだと頭では知っていても、よもや自分の身の上に今日や明日にも起こるとは思えない。大切な人の死別による深い悲しみや無力感に襲われるとき、人は身につまされて死を身近に感じるのではないだろうか。「生死無上(しょうじむじょう)」と教えられ、「無有代者(むうたいしゃ/たれも代わる者なし ※)」と教えられるいのちの事実を、私たちに先だって亡くなっていかれた方は、それこそ身をもって教えてくださっているに違いない。そのことを受けとめることこそ、残された私たちの仕事だと思う。
Mさん、お若く、働き盛りのご主人を不慮の事故で亡くされ、お悔やみの言葉もありません。
葬儀でのあなたは、周りの人に支えられなければ立っておられないほど悄然(しょうぜん)となさっておられました。先立たれたご主人のお母様もおかわいそうでした。骨が砕かれたように、一刻(いっとき)も立ってはおられないような悲しみの深さであったかと思います。どのような慰めの言葉も、あなたやお母様にとっては、別の世界の言葉でしかなかったでしょう。
Mさん、大地が崩れ、骨が砕ける、そういった出来事を人間はどのように受けとめればいいのでしょうか。
Mさん、私は思います。事実は私たちの思いを超えているのです。そして、私たちに否応無く、それへの態度を迫ります。目を覆い、それを打ち消そうとしますが、決してそこから逃げることはできません。
とすれば、それがどんなにつらい、耐え難い事実であっても、その事実に向き合い、その事実を事実として受け入れる心が私たちに開かれてこなければ、本当に生きるということは始まらないのでしょう。
しかし、それはどんなにかつらい、深い悲しみをくぐってのことでしょうか。
Mさん、悲しみにうちひしがれそうになられたら、悲しみのまま、どうかその悲しみに合掌してください。事実の前に人間の思いは無力です。無力でありますが、思いの無力さを知らされることを通して、きっと現実そのものが、あなたに生きることそのことを促してくることでしょう。
- 無有代者
- 『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)巻下』に「人、世間の愛欲の中に在りて、独り生じ独り死し独り去り独り来たりて、行に当たり苦楽の地に至り趣(おもむ)く。身、自ら之(これ)を当(う)くるに、有(たれ)も代わる者無し」とある。
花園 彰氏
真宗大谷派 圓照寺 前住職(東京都)
真宗会館ホームページ
真宗会館広報誌『サンガ』159号より
仏教語 2025 03