四苦八苦という言葉があります。「生・老・病・死(しょう・ろう・びょう・し)」という四つの苦しみ。そして後の四つがあるわけですが、その中に「愛別離苦(あいべつりく)」という、いとしき方との別れの苦しみが出てきます。
死ということを境にして、亡くなられた方は「死苦(しく)」に出会い、遺された私たちは「愛別離苦」の涙を流すわけです。ともに同じ涙なのでしょう。私の方が送られる側に立つか、また送る側に立つか。どちらにしても離別という問題が必ず私たちには起こってきます。
この別れの涙を通して、どうか、自分自身に起こる事柄を、全てが人生の大切な出来事として受け止める眼を開いてもらいたいというのが、亡くなられた方からの一番深いメッセージなのだと思います。
枕勤(まくらづと)めをし、通夜、葬儀、還骨(かんこつ)、初七日(しょなのか)…、そして納骨、法事へと続く時と場を通しながら、亡き方と出会った私たち一人ひとりが、亡き方の、ほとけさまとしてのメッセージ、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)を静かに聞いていく。それが浄土真宗における仏事の願いとして伝わってきたのではないかと思います。
『ブッダの教え』
二階堂 行壽氏
真宗大谷派 專福寺住職(東京都)
『亡き方からのメッセージ ―浄土真宗の葬儀―』
(東本願寺出版)より
教え 2025 03
車に乗っていると向こうから車がやって来ます。一方通行の道で対向車はないはずです。「ここは一方通行ですよ」と声をかけようと思って見てみると、他県ナンバーで運転されている方は外国の人のようです。向こうも困惑しています。しばしにらみ合っていましたが、幸い後ろから来る車がないので、バックして路肩に寄せて相手を通しました。「しかたがないなぁ」と思いながら。
通行を規制された道路ではなくても、私たちは普段自分の思いや考えで自分なりの方向を持っています。その方向が同じ場合や似た人とは、並走してうまくいきます。でも方向が逆の場合は、ぶつかることになります。譲り合って折り合いをつけることもありますし、激しくぶつかって争うこともあります。力ずくで押し通すこともでてきます。人と人の間でも、国と国の間でも、民族と民族の間でも。私たちが持っているのは、一方通行の一方世界です。
それに対し仏様の持っている方向は十方(じっぽう)と言われます。東・西・南・北の四方とその間の東南・西南・東北・東南の四維(しい)と上・下を合わせた十の方角のことで、あらゆる方向に世界があるとして十方世界と言われたり、あらゆる人々を十方衆生(しゅじょう)と表したりします。また上・下は、時間軸でもあって過去も未来も合わせて、「いつでもどこでも」ということを表しています。
あらゆる人や世界をもらすことなく受けとめ応じていく仏様の智慧(ちえ ※)と慈悲(じひ)が十方にはたらくのです。その仏様のはたらきによって、私たちの考えや行いが自分本位の一方通行になっていることが照らし出されます。
- 智慧
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自分では気づくことのできない自らの姿を知らしめる仏のはたらき。
四衢 亮(よつつじ あきら)氏
真宗大谷派 不遠寺住職(岐阜県)
仏教語 2025 03
人は必ず死ぬものだと頭では知っていても、よもや自分の身の上に今日や明日にも起こるとは思えない。大切な人の死別による深い悲しみや無力感に襲われるとき、人は身につまされて死を身近に感じるのではないだろうか。「生死無上(しょうじむじょう)」と教えられ、「無有代者(むうたいしゃ/たれも代わる者なし ※)」と教えられるいのちの事実を、私たちに先だって亡くなっていかれた方は、それこそ身をもって教えてくださっているに違いない。そのことを受けとめることこそ、残された私たちの仕事だと思う。
Mさん、お若く、働き盛りのご主人を不慮の事故で亡くされ、お悔やみの言葉もありません。
葬儀でのあなたは、周りの人に支えられなければ立っておられないほど悄然(しょうぜん)となさっておられました。先立たれたご主人のお母様もおかわいそうでした。骨が砕かれたように、一刻(いっとき)も立ってはおられないような悲しみの深さであったかと思います。どのような慰めの言葉も、あなたやお母様にとっては、別の世界の言葉でしかなかったでしょう。
Mさん、大地が崩れ、骨が砕ける、そういった出来事を人間はどのように受けとめればいいのでしょうか。
Mさん、私は思います。事実は私たちの思いを超えているのです。そして、私たちに否応無く、それへの態度を迫ります。目を覆い、それを打ち消そうとしますが、決してそこから逃げることはできません。
とすれば、それがどんなにつらい、耐え難い事実であっても、その事実に向き合い、その事実を事実として受け入れる心が私たちに開かれてこなければ、本当に生きるということは始まらないのでしょう。
しかし、それはどんなにかつらい、深い悲しみをくぐってのことでしょうか。
Mさん、悲しみにうちひしがれそうになられたら、悲しみのまま、どうかその悲しみに合掌してください。事実の前に人間の思いは無力です。無力でありますが、思いの無力さを知らされることを通して、きっと現実そのものが、あなたに生きることそのことを促してくることでしょう。
- 無有代者
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『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)巻下』に「人、世間の愛欲の中に在りて、独り生じ独り死し独り去り独り来たりて、行に当たり苦楽の地に至り趣(おもむ)く。身、自ら之(これ)を当(う)くるに、有(たれ)も代わる者無し」とある。
花園 彰氏
真宗大谷派 圓照寺 前住職(東京都)
真宗会館ホームページ
真宗会館広報誌『サンガ』159号より
仏教語 2025 03
アップル社の創設者の一人であり、元アップル社CEOの故スティーブ・ジョブズ氏は、仏教に対し、非常に深い関心と理解を持っておられたそうです。今月のことばは、スティーブ・ジョブズ氏が、2005年6月12日にスタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチの締めくくりとして、卒業生へ送った言葉です。直訳すれば「ハングリーであれ、愚かであり続けろ」ということになりますが、皆さんはこの言葉をどのように受け取られたでしょうか―。
Stay hungryとは、挑戦する心を持つことの大切さを語っており、ともすれば現状維持、安易な方向に流されがちな自分に対する叱咤激励(しったげきれい)、すなわち「これで良いのか問い続けなさい」という励ましではないでしょうか。また、Stay foolishとは、周囲の意見や世の中の常識・慣例に捉われ、利口さを演じてしまう自分、アイデンティティを見失いがちな自分、また常に自分は正しいと我を張っている自分に気づかされる言葉、すなわち「自分を守ることに執着していませんか」というメッセージではないでしょうか。
往生念仏(おうじょうねんぶつ)を説かれた浄土宗の祖である法然上人(ほうねんしょうにん ※)は、「浄土宗の者は愚者(ぐしゃ)となりて往生す」と言っておられます。これは愚者、すなわち「愚かな身、どうしようもない自分であることに気づきなさい。ほんとうにそのことに気づくことができれば、自分に対する執着から解放され、平穏に暮らすことができますよ」ということで、愚かな身であることを気づかせてくれるのが念仏ですよと説いておられます―。
そう考えますと、Stay hungry, stay foolishというジョブズ氏のメッセージは、「今がこれでいいか問い続けなさいよ、愚かな身である自分に気づきなさいよ」という温かみのある励ましのように聞こえてきます。
- 法然上人(1133〜1212)
- 日本の僧で浄土宗の開祖。親鸞の思想に影響を与えた七人の高僧のうちの一人。
スティーブ・ジョブズ
光華女子学園HP「今月のことば」
(2012年12月)より
著名人 2025 03