僧侶の法話

言の葉カード

 私たちは、何をもって「いい」「悪い」と言っているのでしょうか。それは、何事に関しても良し悪しを決めようとする、私の価値観やモノサシが作用していることに他なりません。このことは日々の様々な場面で直面します。
 私のお寺の境内では2匹の猫を飼っています。その1匹エリーは、2010年、ある方が、「境内で飼ってくだされば、いつでも会いに来られる」とお寺へ連れてこられました。寺はにぎやかなアーケード商店街に面しています。エリーは商店街を堂々と歩いて、日中は近所の行きつけの店を巡回し、夜中も境内を抜け出し、門前でゴロゴロすることは日常で、いつの間にか、ちょっとした「有名猫」になっていました。
 そんなエリーがある日、姿を消しました。連れ去りだったのです。それから約2週間後、奇跡的に救出され無事帰ってくることができました。警察署へ迎えに行った時、毛の艶(つや)もよく、外見は連れ去られる前と何の変化もなかったので、可愛がってお世話してもらっていたであろうことが想像できました。連れ去った人の本心は分かりません。しかし、私たち家族と、必死で捜索に協力してくださった方々にとっては許されない行為です。
 このことは、全国テレビやネット上でもニュースになり、たくさんの意見が投稿されました。その中には、連れ去りに対する批判だけでなく、外で飼っていたことへの批判もあったのです。元々は境内で飼うことを前提にして、そして多くの方に可愛がられていたので、私としては「いい」と思っていた行いに対しての批判に、ハッとさせられました。
 相手への思いやりのつもりが、逆に迷惑に思われたことは大いにあるでしょう。物事を自分勝手な解釈や価値観だけで判断したときは、他人には受け入れられない場合も往々にしてあります。また、それを指摘されてもなお自分の過(あやま)ちに気づけないこともあります。私自身、今まで気づくことがないまま自分本位の「いい」をしているかもしれない…と思うと恐怖さえ感じます。

 人のわろき事は、能く能くみゆるなり。わがみのわろき事は、おぼえざるものなり。
(『蓮如上人御一代記聞書(れんにょしょうにんごいちだいきききがき ※)』195・『真宗聖典 第二版』1064頁)

と蓮如上人は教えてくださいました。私たちは誰でも善悪をはかるモノサシを持っています。しかし、人それぞれその尺度が違うので、自分の「悪い」ところは差し置いて、他人の悪いところはよく目につくものです。
 このたびの出来事を振り返って、私自身の行いがいいのか悪かったのか、末だ迷っています。だからこそ仏さまの教えを聞くご縁をいただき、立ち止まって「自分自身はこれでよいのか」と問い続けることが大切なのではないかと思います。
 今も、猫たちを見に多くの方がお寺をおとずれます。会えるだけで嬉しいと話してくださる方を横目に、エリーは外で自由に動き回っています。「常に私中心」の身である事実を、エリーは教えてくれているように思います。

蓮如(1415~1499)
室町時代の浄土真宗の僧侶

郡 伸子氏
真宗大谷派 圓光寺(愛媛県)

『今日のことば(2024年)』
(東本願寺出版)より
法話 2025 06