

「あの人は無分別な人だ」という言い方があります。後先考えず、身勝手に事を行うというような意味でしょうか。無分別ということは、分別が無いということですが、分別ということについて親鸞聖人は、「ききわけ、しりわくる」と言われます。聞き分け知り分けるということです。
私たちは、物事を分けて判断し、それを知るということです。これは正しいか間違いか、成功か失敗か、好きか嫌いか、役立つか立たないか、損か得かなど。その判断の中心には、まず「私」があって、物や人や事がらを見ています。そしてその物や人や事がらについて、「私」が比べて、あれは好きか嫌いか、あの人は敵か味方か、この事は善か悪かと判断するのです。それを仏教では「分別」と言います。この「分別」は、どうしてもそれを見る「私」を中心に判断しますから、ものの見方は「私」を中心に偏(かたよ)ることになります。それに対し仏様の智慧(ちえ ※)は「無分別智(むふんべつち)」と言われます。「私」を中心に物事や人を見ないで、あるがままに見るということです。比べて分けることはありません。
しかし私たちは、「私」を無くして比べることを止めることはできません。それで、分けて比べるだけでは済まなくて、あの人たちと私たちは違う、違うことは好ましくない、好ましくないのは良くないことだ、良くないから悪い、悪いから敵だ、敵だから認めない、認められないからやっつけろと、分けて比べる私たちの「分別」に付け込んで、分断を煽(あお)り、対立を激化させる論調や風潮に踊らされやすいのです。だからこそ、踊らされないよう、「無分別智」の教えに、常に学ぶことが大切だと思います。
- 智慧
- 自分では気づくことのできない自らの姿を知らしめる仏のはたらき。
四衢 亮(よつつじ あきら)氏
真宗大谷派 不遠寺住職(岐阜県)
仏教語 2025 06